TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は、亡くなった評論家・坪内祐三さんについて。
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夕刻、演出家の長塚圭史からLINEが入った。坪内祐三が亡くなったという。「いつも芝居に来ては励ましてくれた。いっぱい褒められたのに」。圭史に坪内の話をした覚えはない。坪内との間できっと僕の名前がどこかで出たのだろう。
文芸評論家の坪内とは同年齢で30年以上の知り合いだ。坪内が早稲田で、僕は慶應と、大学は違ったが共通の師が文化人類学者の山口昌男さんで、山口さんにはとにかく芝居を観ろと勧められ、僕らもそのようになった。しかし、坪内の死は早過ぎる。
真っ直ぐ過ぎて誤解される坪内だった。酒が入ると誰かれかまわず絡むから苦手だと言う友人も多かった。編集者だった時の坪内は無口な美青年だった。僕らは山口先生主宰の「テニス山口組」一番下っ端の組員だった。山口組は大学教授や編集者で構成されていて、夏は坪内家の別荘にも行った。高原のテニスコートで日が暮れるまでテニスに興じたが、彼はコートに入ることはなく、みんなのプレイをただ眺めるだけだった。
東京の溜まり場、バー「火の子」でも、山口先生に付き合って神田古書店街で発掘したという古本を嬉しそうにめくり、見せろという先輩たちに少年のようにはにかみながら本を差し出していた。
その後、先生が体調を崩されたこともあり、会うこともなくなった。先生の葬儀後に十数年ぶりにビールを飲んだ。評論家としての坪内の華々しい活躍を知っていたが、歌舞伎町の路上で誰かに殴られて重傷を負ったとも聞いていた。ビールをぐいぐい旨そうに飲む坪内からは当時の紅顔が消え、肌の荒れは深酒のせいかもしれないと気になった。でも、その昔吉祥寺のタイ料理屋で僕が何を食べたのかまで彼は覚えていて、相変わらずの記憶力に舌を巻いた。
それから年に一度か二度、新宿のバー、buraで顔を合わせた。いつも偶然だった。