あるとき、藤本氏は後輩の仲人を引き受けた。

「仲人をするってことは、離婚しないってことなのって、私もホッとしてね。自然の中で農業をやっていくうちに、少し頭がやわらかくなって、『まあ、そういう形の夫婦があってもいいか』と思えたみたい。鴨川に行って、彼はさらにイイ男になったわ」

 それぞれの居場所にいながら、ともに歩んだ藤本氏。58歳の若さで2002年、肝臓がんのため世を去った。「最高のパートナーでした」と振り返る加藤さんの想いは、空の上にも届いているだろう。

「百万本のバラ」や「愛の讃歌」をはじめ、世界中の音楽を歌ってきた。自らが作る音楽には、ワールドミュージックの要素がふんだんに盛り込まれている。文化や民族の垣根を音楽で乗り越え、違う世界を音楽でつないできた。枠にとらわれないスケールの大きい活動は、中国大陸で生まれたことが原点になっている。

「私自身は、2歳半で引き揚げたから、ハルビンで過ごした記憶も引き揚げのときの記憶もほとんどないの。列車が途中で止まっちゃって、荷物で両手がふさがっていた母に、『自分で歩きなさい。歩かないと死んでしまうのよ』と言われて、頑張って歩き通したらしいわ」

 それが確かな糧になったのだろう。

「医学的にはどうかわからないけど、極限状態を経験すると、生き延びるための“細胞”が体の中に生まれるらしいの。それが自分の中にもあるかもしれない。給食を半分しか食べられないくらい小食な子どもだったのに病気ひとつしないで元気いっぱいだったしね」

「知床旅情」が大ヒットしているとき、歌を作った森繁久彌さんが加藤さんの歌声を聞いた。

「君の声は、あのツンドラの冷たさを知っているね」

 と評した。その言葉は大きな支えとなっている。

「森繁さんもそうですが、大陸から引き揚げてきた人には、一種独特の雰囲気を感じる。会うと、ふっとわかるのよね。根本的な明るさと強さがある。さんざんなものを見てきたから、生きることは素晴らしくなきゃいけないと考えているのね。生きることに肯定的で、とにかく前向き。父も母もそうでした」

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