「桜を見る会」の疑惑が広がっている。公職選挙法や政治資金規正法違反の疑いまで出てきた。しかし、野党がこの問題を追及しても、「関連資料廃棄」という壁に突き当たる。「やましいところがあるから」廃棄したのだろうということまでは言えても、「違います」と返されて終わる。このままでは、「モリカケ」同様、本件の追及も尻すぼみになるのではないかと危惧する声も聞こえてくる。
なぜそうなるのか。一つの「文書廃棄」の例を見ながら考えてみた。
内閣府と内閣官房が安倍事務所推薦による招待客名簿などの資料を廃棄した経緯をご存じだろうか。共産党の宮本徹衆議院議員が内閣府・内閣官房にこの問題を追及する質問のため今年5月9日に資料を要求した。すると、内閣府がその日のうちに関連文書を廃棄した。内閣府の官僚は、あくまでたまたまだと言い張った。なぜ、「有名大学を出た優秀な」官僚がそんな嘘八百とわかる酷い答弁をするのか?
私の長い官僚経験から言って、そもそも、官僚が簡単に文書を捨てることはない。過去問を解いて受験戦争を勝ち抜いてきた官僚たちは、前例がなければ、何もできない。省内で説明するときも、最も重要なのは前例。
「昨年はどうだったか」「今年は違うのか」「違うなら何が違うのか」ということを説明できなければ、どんな案件も通らないのが役所の掟だ。文書を残していなければ、責任を問われることもある。だから過去の文書は何があっても残す。
では、なぜ文書の保存期間が定められているのか。
それは、政治家や官僚にとって都合の悪い文書を「廃棄した」と言っても、「責任を問われないようにする」ためである。つまり、「廃棄した」と官僚が言っても、それは、「『公には』廃棄したことにした」という意味で、実際には、必要な資料なら、誰かが必ず密かに保存している。
しかし、今回は、いかにも証拠隠滅と疑われる「廃棄」の仕方だ。それでも安倍総理を守る理由は何か。