『アット・ザ・ファイヴ・スポット第1集』(Prestige)
『アット・ザ・ファイヴ・スポット第1集』(Prestige)
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●この人があと10年生きていたら?

 夭折ジャズマン伝説というのがある。チャーリー・パーカーはじめ、クリフォード・ブラウン、ジョン・コルトレーンなど、若くして亡くなった大物ミュージシャンがジャズ界には少なからずいる。彼らがもう少し長生きしていたらどうなっていただろうかというSF的好奇心が、さまざまな物語を生み出す原動力になっているのだろう。

 確かにクリフォード・ブラウンがあの交通事故にあわなかったら、50年代のトランペット界はマイルスの一人天下というわけには行かなかったかもしれないし、コルトレーンが1967年に死ななければ、フリージャズ・シーンの混迷も無かったかもしれない。信長が本能寺で死ななければ歴史はどうなっていたかという話と、同じ興味だ。

 そういう意味では、この人があと10年生きていたら、いや5年でもいいからレギュラー・グループを率いて活動を続けていたらという、歴史のIF的興味を一番かきたてられるのがエリック・ドルフィーではなかろうか。

●誰にも似ない斬新さ

 彼は同時代のアルト奏者の例に漏れず、チャーリー・パーカーの影響圏でジャズ・ミュージシャンを志しながら、公式レコーディングではほとんどその痕跡を感じさせないオリジナルなスタイルを確立させた。その立ち位置も微妙で、オーソドックスなジャズの範疇にいながら、誰にも似ない斬新さを身につけている。こういうタイプのジャズマンは他に見当たらない。

 それだけに他のジャズマンからの信頼も厚く、チャールス・ミンガス、ジョン・コルトレーンといった大物リーダーが彼をサイドマンに起用した。しかしこれはドルフィーにとって良かったかどうか。というのも、ドルフィーの才能はミンガス、コルトレーンらと同等のレベルで、彼らのようなアクの強いリーダーの元では十分に実力を発揮できなかった恨みがある。

●ブッカー・リトルとの双頭グループ

 そんな彼の、貴重なレギュラー・グループの記録がこのアルバムである。これまた夭折のトランペッターであるブッカー・リトルとの双頭グループで、クラブ「ファイヴ・スポット」に出演した際のライヴ・レコーディングだ。

 一般に、ライヴ・レコーディングというと冗漫な部分があったりするものだが、この演奏は奇跡的にどのトラックも充実している。特に、サイドマンのマル・ウォルドロンが作曲した《ファイアー・ワルツ》は名演で、ドルフィーの意表をつくフレージングの数々に刺激されたリトルが、彼の短い人生最良のパフォーマンスを発揮し、個性的ではあるけれど、あまり切れ味という評価を与えられないマルが、実に想像力に富んだソロを展開している。

●コルトレーンを凌駕している

 1928年ロスに生れたエリック・ドルフィーは、58年にチコ・ハミルトン・クインテットに加わり、映画「真夏の夜のジャズ」に登場したことによって、広くファンに知られることになる。翌59年ニューヨークに進出し、60年にはチャールス・ミンガスのグループに短期間参加すると同時に自分名義の初リーダー作、そしてこのアルバムを録音している。

 その後単身ヨーロッパに渡り、帰国後の61年ジョン・コルトレーン・クインテットに参加、64年再びミンガス・グループに加わってヨーロッパに赴くが、旅先のベルリンで病死する。

 極めて斬新でありながら、フリージャズとは一線を画していたドルフィーが60年代末まで健在であったなら、コルトレーンの死によって混迷を極めた60年代シーンの行方は、もう少し違ったものになった可能性は十分に考えられる。その理由は、今日発掘された当時未発表だったコルトレーン・ドルフィー・クインテットのセッションには、ドルフィーがコルトレーンを凌駕している場面が少なからず記録されているからである。

【収録曲一覧】
1. ファイアー・ワルツ
2. ビー・ヴァンプ
3. ザ・プロフェット
4. ビー・ヴァンプ(別テイク)(CDボーナス・トラック)

エリック・ドルフィー:Eric Dolphy (allmusic.comへリンクします)

→バスクラリネット、アルト・サックス、フルート奏者/1928年6月20日 - 1964年6月29日