僕は書斎の本棚から、赤と緑の『ノルウェイの森』を手に取り、地中海の光景と僕自身のビートルズの記憶を想った。春樹さんは14歳の時にラジオでビートルズを知ったという。
僕の場合、英語教師だった母が朝食を作りながら、シャープ製のトランジスタラジオを聴いていた。NHKラジオで朝7時半からビートルズがかかった。僕も一緒に聴くのでしっかりメロディは覚える。級友や新星堂の店員とそれを頼りに曲目を探り、試聴してドーナツ盤を一枚ずつ買った。
「“Let It Be”ってどういう意味?」、「人生はなるようになるから、そのままにしなさいってこと」。「じゃあ、ここの“the broken-hearted people”は?」、「『失恋』という意味ね」。母には歌詞の意味をよく訊いた。それから半世紀近く。驚いたことに、86歳になった母が、録音された「村上RADIO」でビートルズを聴いていた。インドから一時帰国した修道女兼獣医の僕の妹が薦めたのだ。
番組放送後約3週間経って、春樹さんは短編「ウィズ・ザ・ビートルズ」を発表した(文學界8月号)。朝一番に書店でページをめくると、主人公が高校時代に出会ったビートルズのLPを大事に抱えている女の子とのことがまず書かれていて、「一九六四年の秋」「揺れるスカートの裾」「夏の日の恋」、アルバムタイトル「ウィズ・ザ・ビートルズ」という言葉が飛び込んできた。この夏、僕は春樹さんの短編を読み、久しぶりに母とビートルズを語ることになるだろう。
※週刊朝日 2019年8月9日号