延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFMエグゼクティブ・プランナー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞
延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFMエグゼクティブ・プランナー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞
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ありし日の忌野清志郎 (c)朝日新聞社
ありし日の忌野清志郎 (c)朝日新聞社

 TOKYO FMのプロデューサー・延江浩氏の『週刊朝日』連載、『RADIO PA PA』。今回は「忌野清志郎」について。

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 令和元年の初日は雨だった。取材が終わった夜、テレビ局の友人と待ち合わせした。彼女は朝5時半から赤坂御所前に詰めていた。初公務の天皇は赤坂御所から学習院初等科前を経て、迎賓館を通り過ぎる。大学を出てイギリス留学、皇太子となり結婚、59歳で天皇に。通い慣れたこの道をどんな気持ちで通るのか。そんな思いで中継に当たった。

 時代の節目に立ち会う記者たちは中継の合間に差し込むネタを独自に仕込む。即位後朝見の儀で陛下の前に進む侍従が靴をカツカツ床に鳴らす音は、言葉を発してはならない彼らの祝意を表す。だから幾分厚い踵の靴を選び、ぴかぴかに磨き上げる。番組を仕切るベテランアナは自転車で赤坂御所から皇居まで何度も走って車ではわからない道の起伏を頭に入れた。

 新元号のお祭り騒ぎが鎮まった渋谷から少し歩き、松見坂のロックバーに入る。LiN ENDORPHINという店のDJ、Linが忌野清志郎をかけてくれた。夜も更け、日付は5月1日から2日になっていた。「今日は清志郎の命日だから」

 清志郎はTFMによく自転車でやってきた。ヘルメットに、体にピタッとしたカラフルなロードレーサーの格好で。

 そのまま自転車と一緒にエレベータに乗り込み、「おっす」と小さな声ではにかんだ。盗まれた自転車が戻ってきたばかりの頃だった。

 そんな彼の追悼特番を作った時のことを思い出した。タイトルは『3年7組栗原清志~青い森での青春遍歴~』。清志郎の母校は都立日野。60年代、アメリカ軍のジェット音とのどかな東京の郊外。浅川と多摩川に挟まれた三角地帯に日野高校はある。川のせせらぎ、蝉しぐれ、テニス部とバスケ部の練習音を録り、誰もいない真っ青なプールに足を浸した。

 清志郎は反戦を貫いた。プロテストソングは俺に任せろとでもいうふうに。本名、栗原清志だった高校生時代、母の残した手帳を見つけた。3歳で亡くした母だった。戦禍で亡くしたかつての婚約者を想う日記と自分そっくりの若かりし母の写真。切なく秘められた恋を知り、「この世界から戦争がなくなること。それが俺の夢です」とプロになってステージで泣いた。新聞の人生相談欄に「息子はギターのプロになるのだと申します。どうしたらよいでしょう」と心配したのは育ての母だった。映画監督の及川中に脚本を依頼し、清志郎の高校時代を核にした番組は、ジョン・レノン「マザー」など、秘蔵のライブ音源をふんだんに盛り込み、ギャラクシー賞選奨を受賞した。

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