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作家・コラムニスト、亀和田武氏が数ある雑誌の中から気になる記事を取り上げる「マガジンの虎」。今回は「中央公論 4月号」。
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平成とは何か。平野啓一郎は「中央公論」(中央公論新社)4月号の大澤真幸との対談冒頭で語る。「そもそも平成が終わるからと言って、本当にこの30年間を平成という区分で考えることにどれくらい意味があるのか、疑問に思うんですね」
問題提起としては正しいのだが、どこか優等生的な歴史認識の感が否めない。世間からヒンシュクを買うような野蛮さに欠けるというか。
元号から西暦へ。日本人の意識の変化は、90年代の冷戦構造の終結、21世紀のアメリカ同時多発テロ、リーマン・ショック等に促されたと彼はみる。「グローバルな出来事が多くて、より西暦の感覚が強まりましたよね」
75年生まれの平野は“典型的なロスジェネです”と自分を定義する。さらに平成を「時代自体がずっと『自分探しの旅』をしているような印象を持ちます」とも語る。グローバル、自分探し、ロスジェネ。どこかで目にした言葉ばかりだ。
私なら「俺は団塊です」と口が裂けても言わない。団塊も色いろ、ロスジェネもそうだろう。三島由紀夫が自決する4カ月前の70年7月に書いた「無機的な、からつぽな、(中略)富裕な、抜け目がない」極東の経済的大国への呪詛の言葉を引用した平野は「正に昭和という感覚が希薄になってきて、日本人が西暦で『現代』を捉えるようになっていく時代の風潮をうまく表している」と言う。
私は逆の感想を抱いた。大正14年に生まれ、自分の歳と昭和の年号が一緒だった三島の死で、私は60年代、70年代の西暦区分だけじゃ近現代史は解けないぞと感じた。グローバルな時代の良識に、つい悪罵を浴びせたくなる昭和24年に生まれた男だからね。
※週刊朝日 2019年4月5日号
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