
SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機さんの『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは「スジ違い」。
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編集者として働いていた20代の後半、親から勘当されたことがあった。
母親が会社に電話をかけてきて、ちょっと用があるから近くの喫茶店まで出てこいという。ホワイトボートに「打ち合わせ」と書きつけて指定された喫茶店へ出向くと、口をへの字に結んだ母親がテーブルについて待っていた。
「なんか用?」
「アンタ、もう家に来なくていいから」
「あっ、そう」
思春期をまたぐ10年余り、父親が単身赴任をしていたせいか、大センセイには反抗期というものがなかった。
父親からは「お前が家を守れ」と言われ、母親は気が休まることがないせいかいつもカリカリしており、これでもし自分が暴れたりしたら一家は崩壊してしまう……。
実際はもっと感覚的なものだったけれど、いずれにせよ大センセイ、反抗期というものを持たなかった。いや、持てなかったのだ。
その反動だろうか、成人してからやたらと親の意に沿わないことばかりするようになって、その揚げ句の勘当だったわけだが、いま思い出しても勘当の現場というのは妙なものであった。
母親は儀式のように、伝統的なフレーズを口にした。
「今後一切、家の敷居はまたがなくていいから」
「わかった。こっちも行く気はないから」
ちょっと気を抜けば馴れ合いが顔を出してしまいそうになるのをお互いに予防しているような、いささか滑稽な時が流れた後、母親があるものを取り出した。
「これ、アンタが一家を構えるときのために貯めておいたお金。もう会うこともないでしょうから、いま渡しておきます」
母親がテーブルに置いたのは、通帳と印鑑だった。
遅すぎた反抗期を生きている身としては、
「そんなもん、いらねーよ」
と突っ返すべきだったのだろうが、大センセイ、当時もいまも金欠病である。特にあの頃は契約社員という不安定な身分だったから、お金は喉から手が出るほど欲しかった。