そこからファッションショーにも出るようになりました。そうそう、「週刊朝日」さんの表紙やグラビアも、ずいぶんやらせてもらったわ。それまでのモデルは長身で8頭身だったけど、普通の体形のモデルが必要とされた時代の流れが来ました。

――そのうち、ラジオや始まったばかりのテレビからも声がかかる。テレビドラマにも出演。トーク力が磨かれ、度胸もついた。ただ、天職を選ぶ人生の岐路はもう少し先にあった。

 映画女優さんたちは、五社協定でテレビに出られなかったし、タレントがまだいないころだから、モデルの私たちは便利な存在だったのよね。要は人手不足だったのよ。

 雑誌やラジオではゲストとテーマを決めて対談する仕事もやってて、そのゲストが作家の三島由紀夫さんや今東光さんとか政治評論家の藤原弘達さんなど、そうそうたる人たち。いろんな人にかわいがられて、しゃべりを覚えながら、貴重な勉強をさせてもらいました。私はいつも、仕事を通して勉強してきたの。ありがたいことよね。

 でも私、お芝居は苦手で子どものころは学芸会の日はいつも休んでたの。初めてのテレビドラマも、セリフがぜんぜん覚えられない。胃が痛くなってたんだけど、リハーサルが終わったときにハッと思いついたの。

 自分のセリフのところだけ台本を切り取って、木の横やブランコに貼り付けて、それを見ながらしゃべりました。そしたら、すごく伸び伸びやれて、終わった途端にプロデューサーが大拍手。

 不真面目な話だけど、なんだかそれで妙に度胸がついちゃった。

――1959年には銀幕にデビュー。数多くの映画に出演した。

 映画に出たのは大島渚監督が声をかけてくれたから。その後も「真理ちゃんは女優になるといい」って熱心に言ってくれました。表紙に「芳村真理、女優になるの記」って書いたノートをくれたんだけど、見たらなんだか難しいことがビッシリ書いてあって、ちゃんと読んでないわ。

 新劇の人に「演技の勉強をしたほうがいい」って言われて、俳優座を受けたこともあったわ。なぜだか受かっちゃったけど、サボってばかり。あるとき、お芝居を見に行ったら隣の席が校長先生で、「忙しいのはわかってるから、来られるときに来なさい」って言われちゃった。「君は一番で入ったんだよ」とも言ってたわね。たぶんウソだと思うけど。

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