「論理のアクロバット」が好きです。
 今まで見ていた世界が、ラストでグルリと見え方が変わるような感覚を与えられるロジックの綱渡り。
 その感覚が欲しくてミステリを読んでいます。

 たとえばフレドリック・ブラウンの『叫べ、沈黙よ』。
「森で木が倒れるとき、すごい音がする。だが、誰も聞く者がないところで木が倒れてもそれは音がしたと言えるのか」という問いかけからこの短編は始まります。
 ある男の妻と使用人がコンクリートの燻製室に閉じこめられて死んだ。
 妻の弟は、男が二人が浮気していると思ってわざと閉じこめて殺したんだと言いはっている。
 ところが男は耳が聞こえなかったから、妻と使用人が閉じこめられていることに気づかなかったと言う。その言い分が公的には認められて、男は罪には問われなかった。
 扉の向こうで妻が必死で助けを求めている声も、耳の聞こえない男しか住んでいない家では、無音と同じだったのだ。
 ところがーーーーーーー。
 最後の一行で、この物語は意味がグルリと変わります。
 見事な切れ味の短編です。

 だから、ミステリでも、物理的なトリックはあまり興味がありません。
 一見不可能に見える密室ができていても、できているということは不可能ではなく可能だったと言うことです。その謎を解いたところで、結局そこにある世界の説明にすぎない。現実を論理が後付けするわけです。
 叙述トリックが好きなのは、そこまで読んできたことの意味がラストでひっくり返るからです。
 キレのいい叙述トリックだと、「○○だ」と思いこんでいた世界が実は「××のことだった」とわかる瞬間の快感はたまりません。「ああ、やられたなあ」と頭をゆさぶられるような感覚になる。論理が現実をひっくり返すのです。

 殊能将之氏の『ハサミ男』は、実によくできた作品でした。
 なんとなく不自然だった所が、最後の仕掛けがわかった瞬間に全て腑に落ちる。
 この本のおかげで、自分が叙述トリックが好きだということをはっきりと認識したくらいです。
 同時に殊能氏自身にも興味が沸きました。こんな物語を思いつくのは、いったいどんなプロフィールの人なんだろう。ところが完全な覆面作家で、そのへんのことがまったくわからない。
 氏のブログや、最近ではツイッターも覗いていたのですが、なかなか正体がつかめなかった。
『美濃牛』『黒い仏』、『鏡の中は日曜日』、『樒/榁』、『キマイラの新しい城』、それから氏の作品はずっと読んできました。
 どの作品も、殊能氏らしい一筋縄ではいかない感じはあるのですが、どこか本気を出していない感じがあった。
『ハサミ男』を書いた人なら、もっとすごい作品が書けるような気がする。それだけの知識と才能と頭のよさと人の悪さをもっている人のような気がする。
 ずっとそう思ってきました。
 しばらく作品を発表していなくて、どうしたんだろうと思っていたところに、彼の訃報が飛び込んできました。
 あっけにとられました。
 死因もなにもかも伏せられたままです。
 はっきりしているのは、彼の新作は二度と読めないということ。
 自分でも、この寡作な作家の急逝に、なぜこんなに喪失感があるのかわかりません。
 結局、彼のことは何一つわからないまま、消えて行ってしまったからでしょうか。
 ただただ、ご冥福をお祈りします。