ショルダーホン。現在の携帯電話の前身で、肩にかけて使用した。写真のものは約2.5キロの重さがあった(NTT技術史料館蔵)
ショルダーホン。現在の携帯電話の前身で、肩にかけて使用した。写真のものは約2.5キロの重さがあった(NTT技術史料館蔵)
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 昭和になると科学技術が進歩。とくに高度成長期は加速度的に革新がすすんだ。そんな日本を大きく変えた技術を紹介する。

【写真特集】日本を支えた昭和の技術

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 明治150年を記念して、東京・上野の国立科学博物館で「日本を変えた千の技術博」(10月30日~2019年3月3日)が開かれる。

 昭和は、アジア・太平洋戦争、高度成長期など社会が大きく変わり、科学技術が大きく進歩した。とくに、1964年にアジアで初めて開催された東京オリンピックは、スポーツの祭典にとどまらず、「国産品のオリンピック」「科学のオリンピック」もテーマとしたこともあり、日本の技術力を押し上げた。

「開発のスピードも意欲もオリンピックで一気にアップしました」とは現セイコーミュージアム顧問で、セイコーで開発企画を続けてきた渡邉淳さん。

 これらの製品を見渡すと、あらためて技術立国・日本のポテンシャルの高さが感じられる。

≪世界初のクオーツ時計を生み出したセイコー≫

「セイコーを大きく変えたのは、1964年の東京オリンピックのオフィシャルタイマーになるのが決まったことでした」と、セイコーで長年マーケティングを担当し、現在はセイコーミュージアム館長の村上斉さんは語る。

「確かに、あれからクオーツ腕時計の開発研究が本格的に加速しましたね」と話すのは諏訪精工舎(現セイコーエプソン)で腕時計の開発・企画に携わり、現在はセイコーミュージアム顧問の渡邉淳さんである。

 59年、セイコーは「59Aプロジェクト」を立ち上げていた。これは従来の機械式以外の技術を使った腕時計を開発することを目的としたものだった。その一つが水晶振動子を使った腕時計で、これにより精度が格段に向上することが期待され、諏訪精工舎は新たな技術開発へと舵を切った。

 しかし、当時の技術者は機械・精密工学出身がほとんど。

「新しい電気・電子技術を習得するため、技術者の中には大学に戻って勉強し直す社員もいました」と渡邉さんは当時を振り返る。

 時計メーカーの多くは部品を調達し、それを組み立て販売していたが、セイコーはないものは自分たちで作ろうと自社で開発製造する方式だった。水晶腕時計の開発においても、重要技術である水晶振動子とモーターは自社開発するところから始まった。

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