翁長の似顔絵を掲げ持ち、ただひとり長時間、路上に立ち続ける。タクシーの車内でも、運転手に玉城支持を懇願する。大型台風による暴風雨にふらつき、ずぶぬれになりながら「デニー」ののぼりを振る人たちがいた。

 今回、支援者をそこまで駆り立てたのは、政権によるあまりに露骨な選挙介入への反発心だった。

 自民党元副総裁の山崎拓は以前、本土復帰前の沖縄から初めて衆参の国会議員を選ぶ「国政参加選挙」の応援で1970年に来県したときの思い出を、那覇市の講演で語っている。

「あのときは自民党の西銘順治先生(のちの知事)から瀬長亀次郎先生(沖縄人民党、のちの共産党の政治家)まで、『ヤマトンチューに負けるな』と同じことを訴えていて、自分がヤマトンチューであることを痛感したものでした」

 しかし“一歩引いて地元候補を応援する”半世紀前のような気遣いは、今回の自民党にはなかった。街頭演説では、辺野古ゴリ押しの象徴的イメージがある菅義偉官房長官までマイクを持ち、佐喜眞淳支持層には「候補者が政権の傀儡のように見えてしまう」と心配する声もあがったという。

 そんな自公中央の“力攻め”に対し、玉城陣営は中盤のヤマ場となる那覇市での8千人集会でも、駆け付けた野党の大物政治家を誰ひとり壇上に上げず、“ウチナーンチュの戦い”を強調した。

 結果的にこのコントラストが、玉城陣営の「沖縄アイデンティティー」というキーワードを幅広く浸透させていった。

 世代間ギャップの問題も、ロック少年からタレントになった玉城の身近なキャラクターがかなりの程度までその溝を埋め、出口調査の分析で佐喜眞が強かったのは、10代と20代だけに留まった。

 玉城の主張は、辺野古一本やりだったわけではなく、「新時代沖縄」というポジティブなスローガンで、自立経済の確立なども訴えた。

 実はこの問題、玉城のカラーを出すことと翁長の弔い合戦を強調する配分には陣営にも議論があり、選挙戦半ばからは後者を強調する形に戦術を修正した。節目の8千人集会には翁長夫人の樹子が登壇し、「翁長が心の底から愛して、140万県民を本当に命がけで守ろうとした沖縄です」と涙を誘う演説をした。

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