もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は作曲家の小林亜星さんです。
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高校(旧制慶応義塾普通部)の同じクラスに冨田勲君(作曲家)と林光君(作曲家)がいたんですよ。作曲家になったやつが同じクラスに3人もいたなんて。変なクラスだよね。休み時間になると3人で音楽談議。コーラスの曲を作って文化祭で発表もしました。結構評判がよくてね。それが悪かったんだな。気分良くてね。味をしめちゃった。
――日本レコード大賞を受賞した都はるみの「北の宿から」をはじめ、小林亜星の曲を一曲も知らないという人は、いないだろう。意外なことに、作曲家になる一本道を歩んできたわけではなく、何度か横道にそれた。
うちは祖父が医者だったから大学は医学部へ行けと。ろくに勉強もしない落ちこぼれだったから大変ですよ。大学は高校3年のときの成績で進路が決まるんです。それで1年間猛勉強。進学試験のとき、15分ぐらいで答案を書き上げて教室を出ちゃった。勉強しすぎちゃったんだな。背中に同級生のため息を聞きながらね。まったく嫌みなやつだよね(笑)。
それで医学部へ入ったはいいけど、もう俺はやることはやった、っていう気になっちゃってね。ところが、大学の医学部っていうのはいろんなところから頭のいい人がきている。まるで太刀打ちできない。
1、2年生の教養課程のうちは医学的な授業もないし、好きな音楽ばっかりやってました。子どものころ、木琴を習ってましてね。それを生かして、ビブラフォンを演奏してジャズバンドを組んだ。
そのころ、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島で戦ってきた米軍兵たちが、休暇になると日本の基地まで引き揚げてきて疲れを癒やすんですよ。おかげで基地内のナイトクラブは大忙し。僕たちみたいなへたくそなバンドでさえ、引く手あまたでした。横浜にWAC、Women’s Army Clubっていうのがあったんです。軍属の女性専用のクラブで、お客さんのほとんどは従軍看護婦だったな。あとは軍人の奥さん方ね。そこの専属バンドになっちゃって。サラリーマンの初任給が8500円ぐらいの時代に、一晩で3千円もらえたんですよ。
結局、途中で学部を変わってね。経済学部に移って、卒業するまで親にはバレなかったな。