こんな調子ではとても続けられないと考えたとき、「やっぱり漫画を描きたい」という気持ちが膨らんできたんです。仕事を終えてから、夜中にこっそり漫画を描き始めました。

 案の定、おふくろに見つかって、ものすごい勢いで怒られました。おふくろは泣きながら「好きこのんで野垂れ死にするつもりか」ってね。

 でもそのとき、おふくろに生まれて初めて盾突きました。「この仕事は将来性があるんだ」と言い張ったんです。あそこで勇気を出してなかったら、カミソリの扱いがヘタクソな理容師を嫌々続けていたかもしれません。

 おふくろもビックリしたのか、「1年だけ」という条件で許してくれました。諦めさせるための口実だったのかもしれません。

 朝早くから夜遅くまで理容師をやって、夜中に漫画を描くという生活を続けました。休みも盆暮れだけ。姉貴も助けてくれたし、目標があると人間は頑張れるんですね。もうすぐ1年たつというときに長編を完成させました。当時は貸本ブーム。出版社に持ち込んだらすぐに本になることが決まったんです。

 昭和30年に『空気男爵』という作品でデビュー。どんどん注文が来て店のほうは姉貴に任せっきりで、わけもわからず描きまくって、次々に本になりました。

 おふくろは、認めてくれたのか、体を壊していたからか、黙って見守ってくれましたね。ただ、出た本には何の興味も示しませんでした。デビュー作だけは病床に持っていったんですが、読んでくれたかどうかはわかりません。

――終戦直後、11歳のときに手塚治虫の『新寶島』を読んで「紙で映画みたいなことができるんだ!」と衝撃を受けた。同時に「漫画という分野は絶対に伸びる」と確信した。

 予想外の早さで、想像をはるかに超える成長ぶりでしたね。まさか目の黒いうちに、漫画業界がここまで大きくなるとは思いませんでした。

 私は“活動写真”が“映画”と呼ばれるようになったのと同じで、ストーリー漫画を“劇画”と呼ぶようにしました。

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