野崎氏は遺体で発見された時、ぼほ裸だったという。前出の従業員はこう話す。

「下半身に何も身に着けていなかったのは、社長が普段からオムツをつけていたためでしょう。社長は病気のせいで年中、大も小もオムツに漏らす。オムツで吸収しきれなくなり、床やお風呂にこぼすこともあった。そのたび、家政婦や従業員に掃除させた。車を運転していても、ブーって漏らす。だから2階の社長の寝室は臭いひどく、奥さんは『あんな部屋に上がりたくない』『車で漏らして臭かった』と毛嫌いしていた。奥さんは次第に社長と一緒に住むのを嫌がり、月100万円の小遣いをもらうと、モデルの仕事が入ったと東京にさっさと帰っていた」

 野崎氏は中学卒業して、家業の酒屋を手伝った後、夜間高校に通った。だが、続かず、また家業を手伝ったという。

「子供の頃はいじめられっ子でよく年上の子供に泣かされていた。中学時代も勉強ができず、家業の酒屋を手伝うようになった。でも、勝手に酒をスナックに売りにいき小遣い稼ぎしたりと、やることがめちゃくちゃ。幸助は3男で男兄弟で一番下なので母親はかわいがりをした。両親の遺産相続で兄弟と裁判沙汰になるほど揉めましたが、その元手で高利貸しを拡大しました」(前出の親族)

 野崎氏のひどい取り立ての悪評は地元で知れ渡り、親族は誰も付き合わなくなったという。

「地元で高利貸しをはじめた当初は法律も甘く、年利36%くらいとれた。東京にも進出し、街頭で当時は珍しいフリーダイヤルが記されたティッシュを配った。歌手の西川峰子(現・仁支川峰子)と親しいと吹聴し、その写真入りのティッシュを配ると、多重債務者が次々と借りに来た。社員も増えて貸出金額も増えました。当時、サラ金の取り立てが社会問題化しましたが、社長はお構いなしで、家の前で車のクラクション鳴らしたり、エンジンをふかして赤い粘着テープで目立つように金返せと張り紙したりと無茶苦茶でした」(元従業員)

 仁支川さんの個人事務所は、「営業で頼まれて、30年ほど前、ショーで歌っただけ」と話す。

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