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 かつてニューヨークに一年ほど暮らしていたころ、頻繁に展覧会を見にいった。特に最初の頃は毎日のように美術館や、ギャラリーに向かった。ほかにすることが思い浮かばなかったし、そもそも、なかったからだ。つまり時間を持て余していた。たいして知り合いも友達もいないのだから、誰かに会うこともできない。だから自然と足が向かったのだ。
 そんなか、ある美術館で二枚の写真を目にした。その写真の前で足が止まった。二枚で一組のものだった。ニューヨーク近代美術館でのことだ。
 二枚の小さなモノクロ写真は絵画、彫刻を含めたさまざまな作品が展示されている企画展のなかにあった。タイトルはない。「untitled」という素っ気ない英字。撮影者の名前もなかった。「撮影者 不明」と英語で書かれていた。写真の説明すらなかった。ただ、白い壁にぽつんと、あたかも取り残されたように見えた。

 だけど、想像はついた。どのような状況で撮られたものか。被写体となった人物がどのような人たちなのか。
 まず間違いなく場所はカンボジアで、ポルポト政権時代に撮られた写真のはずだ。おそらく虐殺される寸前の人の姿だ。私はかつてそれらの写真を観たことがあった。それとほとんど同じ撮られ方がしていた。
 それぞれの写真のなかに、一人ずつ写っている。白い壁の前に、黒い服を着た人がたたずんでいる。じっとカメラを見据えている。恐怖におののいているように映る。おそらく、撮影したのはポルポト派の者だろう。ストロボの光を直接当てているので、影が後ろにくっきりとでている。証明写真と呼ぶには乱暴で、粗雑だ。撮る者の心情をそのまま現しているといってもいいだろう。感情はなく、あるいは表に出さずにシャッターを機械的に押しているように感じられる。
 撮影者は撮影を専門にする者なのだろうか。その者をカメラマンと呼んでいいのだろうか。男だろうか、女だろうか。その者は膨大な数の、これから殺されていく人間の姿を記録したはずだ。その心境とはどのようなものだろうか。

 数日後、私はこの二枚の写真をまた観に出かけた。気になってしかたがなかった。そのあいだ、心がずっとザワザワと騒いでいた。強く惹きつけられるのだ。
 そのときは気がつかなかったけれど、観てはいけないものをもっと観たいという欲求があったのだと思う。その後に読んだ、ある写真批評家が書いた文章のなかに、死体が映った写真を観たいという欲求が、そもそも人間にはあって、それは一種のエロティッシズムと深く関係しているという文章に出会った。それを読んだとき、自分が何故、あれほど惹かれたのかが、少し理解できた気がしてきた。
 何よりこの二枚が、写真とはいったい何なのかということを考えさせるきっかけとなった。よく人は、よい写真とか、うまい写真とか、逆に下手な写真とか口にするけれど、つまりそれは何か? 何によって支えられているのか、何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。この二枚の写真を前にしたとき、私は混乱し、わからなくなってしまった。
 

 美術館に展示される作品はアートと呼ばれ、それを作る者は多くの場合、アーティストと呼ばれる。アーティストはまず間違いなく自分がアートとか、作品を作っているという自覚がある。ニューヨーク近代美術館に展示されることを目標にしているアーティストが作った作品もあるかもしれない。この美術館は世界的に著名だ。だから、ここに作品が展示されることは間違いなく名誉なことだし、だからこそ、簡単ではない。そのことを観る者もよく知っているからこそ、多くの人がここを訪れるはずだ。
 そのなかにあって、この二枚の写真は明らかに異質だった。作者は不明、作品には名前すらないのだから。それでも作品と呼べるのか。きっと呼べないだろう。呼ぶ必要もないだろう。ただ、シャッターを押した者は不明だが、それでも確実にいる。そして被写体となった人物ももちろんいる。写された後、彼らが本当に処刑されたのか、少なくともこの写真だけではわからない。

(次回に続く)