平野:うーん、そういう部分もあったと思いますけど、僕、そのあと長いこと京都に住んでたんですよね。デビューのときにあまりにもメディアが殺到して、東京に出たら大変なことになると怖気づいて。あのとき京都でのんきに過ごしたのが、自分にとってはよかったと思いますね。
林:お金もいっぱい入ってきたし。
平野:「日蝕」が「新潮」に掲載されて原稿料が70万円ぐらい振り込まれたときは、天下をとったような気分でしたよ(笑)。それで親の仕送りをやめてもらったんですが、そのあと芥川賞をとって本が売れてまたお金が入ってきて、びっくりしましたね。
林:そのお金で、京都のお茶屋さんに行ったり?
平野:そんな気の利いたこと思いつきませんよ(笑)。チビチビ大事に使いました。
林:そのあともコンスタントに売れ続けて。
平野:でも、売れない本もいっぱい書きましたよ。売れる本を書こうと思いすぎると、小さい作家になるような気もするし。僕は純文学作家として生きていこうと思っていたので、自分の本が売れてほしいとか、お金持ちになりたいとかいう気持ちはぜんぜんなかったんです。でも、作家になって編集者の年収を聞いたときに、編集者よりは稼げるようになりたいなと思いましたね(笑)。
林:大手出版社の社員より収入がある作家はごく一部だっていいますもんね。小説は学生時代から書かれていたんですか。
平野:最初に書いたのは高校生のときで、そのときは80枚ぐらい書きました。トーマス・マンが好きだったので、初期の「トーニオ・クレーガー」とかの影響が丸出しの小説を。友達に読ませたら、すごく気をつかった感想を言ってくれました。「まあ、いいんじゃない?」とか(笑)。僕も書いたことで気がすんじゃって、そのあと普通に受験して大学に行ったんですよね。でも、当時の京大法学部の学生って、学校なんか行ってなくてヒマなんです。それでまた小説を書こうという気持ちになりました。