●ジャズ・ファンにとってヒップホップは「鬼門」なのか
「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル・ウィズ・ブルーノート」の話の続きです。が、89年に上京した私は、このフェスティバルの“最もブルーノート・レーベル色が濃かった頃”を見ていません。自分が通っていたころのマウント・フジには、すでにアート・ブレイキーもハービー・ハンコックもおらず、再結成ブレッカー・ブラザーズや“驚異の新星”ジョシュア・レッドマンの登場が話題を呼んでいました。「なんだ、ぜんぜんブルーノートと関係ないじゃん」と思いながら、半ば不思議な気持ちでステージを見ていたことを思い出します。
ぼくは行かなかったのですが、95年度のフェスティバルは稀に見る大荒れだったそうです。その原因は英国のヒップ・ホップ・グループ“US3(アス・スリー)”が出たから、という話をきいたことがあります。もっとも彼らはブルーノート・レコードの古い音源をサンプリングした「カンタループ」という曲で大ヒットを飛ばしていたので、ブルーノートゆかりのフェス出演は故なきことではないのですが、あのおとなしい日本の音楽ファンが大挙してブーイングしたというのですから、これは相当な珍現象といっていいように思います。
果たしてこれは「ジャズ・ファンのラップ~ヒップ・ホップに対する拒否反応」なのか、「US3のパフォーマンスがあまりにもイモだったから」なのか。ぼくは6:4の割合だったのではないかと、勝手に推測しています。
●フレディ・ハバードの酒臭さ
その次の年、マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルは開催地を横浜に移しました。富士山は見えなくなってしまいましたが、都内に住む者にとっては、ぐっと行きやすくなったのも正直なところです。野外公演とホール公演が半々で行なわれ、パット・メセニーのホール公演が早々とソールド・アウトになってしまったことが鮮明に記憶に残っています。日本人はメセニーが本当に好きですね。
私は雑誌の取材でジャッキー・マクリーン、フレディ・ハバードに張り付いておりました。すでにフレディの唇の状態が最悪であること、トランペットの音が出ないこと(フリューゲルホーンなら、いくらかは吹けた)は知っておりましたが、その辺のことを尋ねるのは勇気がいるものです。まごまごしていると、酔っ払ったフレディが酒臭い息を吐きながら、不調の理由について話してくれました。
いわく、「唇にポリープができたので除去した。俺はずっと唇をマウスピースに押し当てるハードな吹き方をしてきたから、それが祟ったのかもしれないな。今、新しい吹き方に移り変わっている最中だ」、「トランペットを持ってきてはいるが、人前で吹く自信がない。フリューゲルホーンで乗り切るつもりだ」、「おまえ、スイングジャーナルだろ?俺を表紙にしろよ」などなど。
マクリーンとフレディは、1961年に吹き込まれたマクリーンのアルバム『ブルースニク』で絶妙のコンビネーションを聴かせたことがあります。が、あの呼吸は二度と蘇らないのだ、と私は痛感いたしました。
●野外に響いた、とぎれとぎれのラッパ
翌日、彼らのライヴが野外会場(場所は忘れました)で、おこなわれました。観客のほとんどは事前に、フレディがここまで衰えていることを知らなかったのではないかと思います。音程の定まらない、とぎれとぎれのフリューゲルホーンの音色に、客席がざわつきます。私は後方の芝生に寝転んで聴いていたのですが、前にゴザをしいて座っていた2人組が終演後、「どうしちゃったんだろうね、フレディ。VSOPの頃は凄かったのに…」と寂しそうに語っていたのが忘れられません。
フレディの技(chops)は亡くなるまで戻りませんでした。2009年だったか、私は晩年のフレディと親しかったマイケル・ワイスというトランペット奏者に話をきいたことがあります。「あんなに吹けなくなって、フレディは自分に失望しなかったのだろうか。引退を考えなかったのだろうか」と問うたところ、「それはなかった。彼はいつも演奏への意欲に燃えていたし、実際、ほんの少しではあるけれど、往年の輝きを取り戻すこともあった」という答えが返ってきました。
『ブルースニク』には、マクリーンとフレディの“青春”が刻み込まれています。私はやはり、若くて元気だった頃のミュージシャンの演奏を大切に愛でていきたいと思ってしまうのです。いささかセンチメンタルかもしれませんが……。