「花森さんは、受けた仕事はとことんやり遂げる人。大政翼賛会の新しい仕事も一生懸命、街頭演説までしたそうです。ただ、私たちにはそういった話はしませんでした」(河津さん)

 68年、花森は原点に返ると大号令をかけ、それまで商品テストやファッションなどが中心だった「暮しの手帖」の第96号の全ページを費やして「戦争中の暮しの記録」を発表。大きな反響を呼んだ。

 以降、これまで封印していた政治的メッセージも積極的に発することになる。70年には「見よ ぼくら一銭五厘の旗」という一文を掲載している。

〈民主々義の《民》は 庶民の民だ/ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ/ぼくらの暮しと企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ/それが ほんとうの《民主々義》だ〉

「一五厘」とは、戦時中の郵便ハガキの値段を意味する。兵隊を召集することは一銭五厘の赤紙でできる。兵隊の命は、軍馬より安い。従軍経験のある花森は、庶民を一銭五厘にたとえたのだ。71年には週刊朝日も「花森安治における『一五厘』の精神」という記事を掲載。実は、花森と週刊朝日は浅からぬ縁があった。

 帝大新聞時代の先輩で、メディア界の盟友だった扇谷正造は、大学卒業後に朝日新聞社に入り、週刊朝日の編集長を務めた。その縁で、花森は週刊朝日の別冊本の表紙絵を描いたり、「衣装読本」「日本拝見」の連載を執筆したりした。

 だが、週刊朝日に掲載された記事の「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた」という発言が、波紋を呼ぶことになる。

「暮しの手帖」の成功で時代の寵児となった花森に対し、「戦時中の戦意高揚ポスターを作った張本人」との批判はもともとあった。「欲しがりません勝つまでは」といった文案まで花森が作り上げたという、曲解された情報もあった。そのなかで自らの戦争責任に言及したことが反響を呼び、誤った解釈がさらに広がってしまった。それでも花森は、釈明は一切しなかった。

 花森にとって大切なことは、庶民の暮らしを守ること。一部の人の「戦争責任の罪滅ぼしで雑誌をつくった」という陰口には、興味がなかったのかもしれない。前出の馬場氏は言う。

「花森は、一銭五厘で戦地に送られた側であると同時に、後の翼賛会時代に兵隊を送ることをあおった側でした。花森のような人物でさえ、戦争に“反射”してのみ込まれてしまった。しかし、そのことを傍観者の立場で批判しても意味はありません。それよりも、日本が再び戦争をしないために、何をしなければならないのか。花森の仕事は、私たちにそれを問いかけている」本誌・西岡千史(一部敬称略)

週刊朝日 2016年9月23日号

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