「花森は自身の経験から、戦争がおきたら個人はその流れに逆らえないことがわかっていたのだと思います。だからこそ『戦争がおきないようにすること』が大切だという信念があった。そのために『庶民の暮らし』を守ることにこだわった」
ドラマでは、常子は「女性のための雑誌を作る」ことは繰り返し語っているが、「暮しの手帖」には「二度と戦争をおこさせないための雑誌」という、もう一つの信念があったのだ。文筆家の木俣冬氏は、こう話す。
「『とと姉ちゃん』は視聴率は好調なのに、批判的な意見が多い。それは、第16週以降は花森を中心とした反戦の思想を描くことを避け、ドラマとして戦中と戦後がうまくつながっていないからです。制作スタッフは『朝から反戦思想のドラマは重すぎる』と話していますが、戦中のエピソードや人とのつながりも消え、軽いドラマになってしまった」
花森安治は、1911年に神戸市で生まれた。6人きょうだいの長男で、33年に東京帝国大学に入学。新聞記者か編集者を希望し、「帝国大学新聞」の編集部に入部した。
37年に大学を卒業するが、この年に日中戦争がはじまる。軍靴の音は日増しに高まっていた。花森も徴兵され、極寒の中国東北部(旧満州)に赴くことになる。前出の河津さんは、花森から従軍体験のつらさをよく聞いていた。
「満州北部の凍えるような土地に派遣されていたとき、夜通しの行軍で『小休止(休憩)!』の声がかかると、雪の上に倒れたそうです。『そんなときは欲も得もなく人間は寝るんだよ』と話していました。部隊にはむやみやたらに殴る上官もいて、末端兵士のつらさや恨みが骨身にしみてわかっていた」
敗戦から27年が経ったとき、グアム島に潜伏していた旧日本兵が帰国したニュースが大きな話題となった。そのとき編集部員が「もっと早く出てくればよかったのに」と言うと、花森は、
「キミにそういうことを言う資格はない!」
と、色をなして怒ったことがあったという。
花森には別の一面もあった。戦地・満州で結核にかかった花森は、39年に病院船で帰国。翌年に除隊となり、前の勤め先に復職した。その次の年、帝大新聞の先輩に誘われ、大政翼賛会実践局宣伝部に勤めることになった。戦地で戦う立場から一転、国内で戦意高揚広告の作成に携わるようになったのだ。
大政翼賛会時代には、〈進め!一億火の玉だ!〉〈屠れ!米英我らの敵だ〉の標語を公募から選び、ポスターの図案を考えた。