ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、卓球界のヒロイン、ヒーローを取り上げる。

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 シングルスで男泣きをした首領(ドン)こと福原愛ちゃん。一転、団体戦ではキャプテンとしてチームを銅メダルに導き、達成感と解放感からか、試合後は一貫して大晦日の演歌歌手みたいになっていました。和の美徳に徹底した「三歩下がった嬉し涙」。日本女性の誇りです。それでいて、髪を下ろすと3人の中でいちばんのヤングスタイル。根っからの戦士(ファイター)です。

 さて、今回のオリンピックにおける最大の収穫は、卓球と日本人の親和性を改めて確認できたことではないでしょうか。古くから親しまれてきた卓球は、観戦競技としても、すこぶる日本人の気質に合っていることが分かりました。その鍵は「泣き」と「劣等感」にあります。特に女子卓球の戦いは「泣き」の全曲集のようでした。負けては泣き、勝っては泣き、悔しくては泣き、嬉しくては泣き、振り返っては泣き。ひたすら湿っぽい。無論、その湿っぽさの8割は、愛ちゃんの天性に依(よ)るものでしたが、「歯を食いしばり、耐えて、追いかける」といった日本海的な悲壮感は、やはり我が国にとって鉄板要素なのだと痛感した次第です。卓球に持たれ続けている「決して華やかでスタイリッシュなものではない」というイメージを逆手に取ることで、人々の視線と感情を釘付けにしたと言えるでしょう。愛ちゃん劇場、圧巻でした。

 
 一方で男子は、日本の暮らしに根付く「卓球=地味」という概念を、見事に覆すぐらいの派手な活躍を見せつけてくれました。卓球なのにスピーディ。卓球なのにハードでタフな試合。卓球なのに強靭な肉体。このようなギャップによって、今回のフィーバーは起こりました。裏を返せば、いかに多くの人が、卓球を軽く視(み)ていたかが露呈したオリンピックだったと言えます。しかし、この卓球に植えつけられてきた劣等感が、勝ち進むことによって払拭されていく様を観るのは、劣等意識の強い日本人にとって、非常に爽快だったはず。

 昔から日本人は卓球が好きです。悠々とテニスに興じようともどこか気後れする中、卓球であれば、教室だろうと手狭な台所だろうと、一瞬にして競技場を確保できる。この小さな島国で、「日々の暮らし」と「非日常的な白熱」を両立させることのできる唯一のスポーツが卓球だったのかもしれません。しかし当然、人々の劣等感は、野球やサッカー、テニスやゴルフといったゲーム競技に派手さを見出しました。身近過ぎるが故の地味さ。これが長年「卓球」が抱えざるを得なかった歯がゆさです。今回それを打ち破った、水谷隼選手を始めとする男子卓球チーム。ただ、これでもし卓球が、野球やサッカーと並ぶ「花形競技」になったら、日本人が愛してきた「暮らしに密着した卓球」は失われてしまう。一瞬そんな不安がよぎりもしましたが、杞憂に終わりました。彼らは決して「派手」ではなかった。あのガッツポーズは、「派手」に手馴れていない自覚の表れです。花形競技にありがちな作為的な自意識の高いスカし方とは、まさに真逆を行っていた水谷選手。言うならば今回の男子卓球チームは、「地味なまま花形ポジションを掴む」という、多くの日本人にとって最も共感できる仕上がりを見せてくれたのです。

 せっかくのノーパン宣言も、やや空回り。確かに「ノーパン」て、いきなり攻め過ぎです。でも、この不器用さ、好きよ!

週刊朝日 2016年9月9日号

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