「お父さんがいいと言うまで動きませんという表情で、芯の強さを感じましたね(笑)。この家でいい教育を受けたのだということも実感しました。桜田淳子などもそうでしたが、芸能界で成功するには運、才能のほかに、家庭の雰囲気も大きな要素だと思っています。それまでにも何人もスカウトして自宅に行きましたが、“この子がいなくなったら平和になる”というように親との関係が悪かったり、アポをとって訪ねたのに親が泥酔しているような家庭環境ではデビューしても大成はしていません」
父の理解を得た聖子は、九州の高校から堀越高校に転校し、夏休みに上京してきた。
「一刻も早く歌手になりたい」という本人の希望からだったようだが、この決断がすべての運を開いた、と振り返る福田氏。
「その年の11月に始まる日本テレビ『おだいじに』というドラマで(事務所所属の)太川陽介の相手役に応募したらポンと受かって。それで聖子は歌手より先に女優でデビューしたんです。そして、ドラマの役名も芸名と同じ松田聖子にしてもらったのです」
そのドラマ出演中に洗顔料「エクボ」のCMモデルのオーディションを受けたが、“エクボができない”ために出演は見送られた。だが声が認められてCMソングを歌ったところ話題になり、当初の曲のタイトル「エクボの季節」を「裸足の季節」と変えて、80年4月、この曲でデビューを飾った。
「その前月に山口百恵が引退発表をしたこともあり、いきなり聖子がポスト百恵として注目されたんです。じつはうちで賭けていたもうひとりの新人のCMタイアップが直前に頓挫してプロモーションがうまくいかず、そんなタイミングが余計に聖子への追い風となったのです。しかし、その運は聖子自身が掴んだものです。もし我々の言葉に従って久留米で高校を卒業してから上京していたら、タイミングを逃していたでしょう」
2曲目の「青い珊瑚礁」が大ヒット。そこから快進撃は止まらなかった。
「大ブームになった聖子ちゃんカットは、気付けば全国の女の子が髪形をまねて、その後に出たアイドルも皆、聖子とそっくりな髪形でしたね」
聖子はデビュー前の“約束どおり”社長の相澤氏の家に一緒に住んだが、そこに大勢のファンが押し寄せたという。
「都内にある相澤の家の周囲は休日ともなると人がいっぱい。でもいちばん迷惑をこうむったのは司葉子さんの家なんです。ご主人(相澤英之氏)は衆議院議員でしたが、同じ“相澤”の表札を見てファンが間違えてそちらに押しかけてしまったんです」
2013年、相澤氏がすい臓がんで死去した際、娘の神田沙也加を連れ、通夜に駆けつけた聖子。
その後の14、15年も2年連続で紅白歌合戦の“大トリ”を務め、娘の沙也加と共演を果たすなど名実ともに芸能界の“伝説”となった。福田氏は言う。
「聖子のことは相澤も特段可愛がっていました。今までの活躍ぶりをきっと天国で喜んで見守っていることと思います」(一部敬称略)(本誌・藤村かおり)
※週刊朝日 2016年8月12日号