暗殺や戦死など外因死が多い中、当然、病気で死んだ武将も少なくない。歴史上の人物をどう診断するか、どう治療するか、歴史好きな医者の間では、盛り上がる話題だそう。書籍『戦国武将を診る』の著者・早川智氏もその一人。早川氏は、歯周病が源頼朝の全身を蝕んでいったと診る。
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最近、中学高校の歴史教科書から、有名な神護寺にある源頼朝の肖像が消えている。図像学的に13世紀を遡らず、足利直義像と取り違えたのではないかというのである。まだ結論は出ていないが、アンドレ・マルローが絶賛したこの頼朝(直義)像は、非情で冷徹な政治家という我々のイメージのもとになっていると思う。
源頼朝は清和源氏の嫡流、源義朝の三男として久安3年(1147年)4月8日に生まれ、13歳で右兵衛権佐に任ぜられる。父・義朝は、保元の乱で平清盛とともに勝利するが、その賞罰を不満として平治の乱を起こし敗北。頼朝は父と兄2人を失い、本人も処刑寸前を助命されて伊豆・蛭ケ小島へ流される。
ここで流人生活を送った後、治承4年(1180年)、以仁王の令旨に応じて平家打倒の旗を掲げる。総帥清盛の病死により求心力を失った平家は連戦連敗して西国に逃れ、ついには文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで滅亡。頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、独裁権力を握る。
その後、大江広元ら有能な官僚による統治システムを進めるが、建久9年(1198年)12月27日、相模川で催された橋供養からの帰路、落馬して体調を崩し、翌建久10年(正治元年)1月13日に死去した。
「相模河の橋、数カ間朽ち損ず、(中略)建久九年、重成法師之を新造して、供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬あり、幾程を経ずして薨じ給ひをはんぬ」(『吾妻鏡』)
平安時代の公家の平均死亡年齢は60歳前後とされる。時の権力者の落馬事故に続く53歳の死は、人々に奇異な印象を与えたに違いない。『武家俗説弁』に、「忽ち卒中風さし起こり、病痾日を追て重く」なったと記されていることから、医史学者の富士川游博士や服部敏良博士は死因を脳出血と推定している。
ほかにも、慢性硬膜下血腫説、破傷風説、平家の残党や不満御家人による暗殺説などがある。