落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」で、新しいハラスメント「サイハラ」について語っている。
* * *
今年の元日。某寄席に出演するため楽屋口から入ろうとすると、背後から見知らぬおじさんに呼び止められた。
「サイン、ちょーだいっ!!」
おじさんの右手には色紙一枚と油性マジック、左手にはスーパーのビニール袋。中に色紙の束が入っていた。
ピンときた。正月の寄席は出演者がとにかく多い。おそらく楽屋付近で待ち構えて、かたっぱしから芸人にサインをもらう腹づもりではないか……。
最近ではネットオークションにサイン色紙を出品する輩もいるらしい。私のサインが売れるかどうかは別としても、けしからんことだ。
で、一応聞いてみた。
「僕の名前、知ってますか?」
「は? サインちょーだいっ!」
おじさんはとにかく笑顔だ。
「いや、誰だかわかりますか?私のこと……」
「あー、ま……、いいじゃないっ!!」
……よくねーよ。
「知らない人のサイン、欲しいですか?」
「ゴメンね! 勉強不足で! これを機に覚えるからさ。書いてよー、一枚くらいっ!!」
悪びれもせず、おじさん。
「そうですか。じゃあ、ちゃんと覚えてくださいよ(苦笑)」
と言いながら、
<一富士、二鷹、乳酸菌 ホージー八重樫 2016・1・1>
と、架空の芸人の架空の座右の銘を書いておいた。
「あなた何の芸人さん?」
とおじさん。
「ヤクルト漫談のホージー八重樫です、よろしく」
「ありがとう、スージーさん!」
覚えてねぇじゃねぇかよ。スージーって!
サインを求められるのは大変光栄だけど、ちょっとデリカシーのない人も。
飲みの席で「これにサイン書いてよ」とコースターを差し出されることがある。コースターなら百歩譲ろう。広告の裏、箸袋、紙ナプキン、手の甲……身体に書いたら消えるだろうが。
「箸袋だったら、書いてもすぐに捨てるんじゃないですか?」
「捨てないよー!(軽く)」
「……そうですかぁ、じゃあ」
と言いながら箸袋に、
<これ捨てたら、死ぬ! 洒落じゃないぞ! 執念深い噺家 春風亭一之輔>
と書いた。まだ悪い噂は聞かないので、大切にして頂いているのだろう。ありがたいことだ。
逆に「これに書くの?」というものを差し出す人もいる。
スマホのボディー。書くほうとしてはけっこう重たい。
「お願いします!!」と熱っぽく差し出されたので、
<まるで電波が入りませんように 春風亭一之輔>
と書かせて頂いた。
その後、その人はすぐ電話してたんで、私のまじないはあまり効かないようだ。
犬小屋にサインを求められ、書いたことがある。落書きされて怒ったのだろうか。犬がサインにオシッコをひっかけた。
<犬に生まれ変わっても、君の飼い主だけには飼われたくないいちのすけ>
というマジックの跡が、滲んで読めなくなってしまった。
サインは求めるほうも求められるほうも、お互い幸せになるためにしたいものだなぁ。
※週刊朝日 2016年1月29日号