大阪ならではのご贔屓?
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 明智光秀を描いた「絵本太功記」は「絵本太閤記」を浄瑠璃にした物語である。次世代を担う文楽太夫の一人、豊竹咲甫大夫さんがその魅力を紹介する。

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 一七九七年に出版が始まった絵本太閤記は豊臣秀吉の一代記です。タイトルに「絵本」と付くように挿絵を入れ、太閤・秀吉の話を分かりやすく書いたもの。当時は大評判となりました。

 十月は、文楽は毎年地方公演ですが、今年上演する絵本太功記は、先の絵本太閤記を浄瑠璃にしたものです。とはいえ、タイトルの「閤」の字を「功」に変えているように、内容はウラハラ。秀吉が成り上がったサクセスストーリーではなく、秀吉が出世する裏で明智光秀が苦汁をなめた様子を克明に描いています。

 物語は六月一日から十三日まで、光秀が本能寺の変で主君の織田信長を討ってから、京都・伏見で百姓に襲われて自害するまでを追います。一日を一段とした十三段構成。今回上演する夕顔棚の段と尼ケ崎の段は、「十段目」と呼ばれています。物語の十日目にあたる話ということです。

 十日目、光秀の母・さつきは我が子の謀反を嘆き、尼ケ崎(現兵庫県尼崎市)で閑居していました。そこへ、旅僧が一夜の宿を乞いにやってきます。さつきは僧を迎え、風呂が沸いたので入るように勧めました。僧が風呂に入るやいなや、光秀が家に押し入り、この僧こそが弔い合戦を企てる久吉(秀吉)に違いないと、風呂場めがけて竹槍を突き刺します。ですが、叫び声を上げて転がり出たのはさつきでした。

 さつきは光秀が家の外から久吉の様子を覗(うかが)っていることに気づき、計画を見抜いていたのです。そして、我が子に主君を殺した罪の深さを思い知らせるために、わざと犠牲になったことを「主(しゅう)を殺した天罰の報ひは親にもこの通り」という言葉で伝えます。

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