1945年8月15日、玉音放送が流れ、終戦が日本国民に伝えられた。しかし、その知らせを誤解する者も少なくなかったようだ。
70年前、日本本土を指す内地は女たちの戦場だった。戦争下の暮らしに耐え、なおかつ父を、夫を、息子を失った。それでも年老いた両親や幼い子供を抱えて生き抜いた。
大分県竹田町(現竹田市)に住んでいた有馬里美さん(77)は、7歳で終戦を迎えた。父の守貞夫さんは、妻と里美さんら6人の子供を残して現インドネシアのボルネオ島など南方戦線へ出征。幸運にも生還したが、その後もマラリアなど南方特有の病に、痩せた体をむしばまれた。全身を襲う麻痺(まひ)や痙攣(けいれん)に苦しんだ末、結核に侵されて47歳の若さで亡くなった。残された母のレイさんは、産婆で生計を立てながら子供たちを育て上げた。里美さんは戦時下も戦後も、いつも空腹だったことを覚えている。
高野昇さん(82)は、国民学校6年生だった。茨城県大宮村(現龍ケ崎市)の農村では珍しく、自宅にラジオがあった。庭に集まった近所のおばさんたちと曽祖母、母と直立不動で玉音放送を聴いた。だが内容が難解で誰も意味がわからない。みな口々に、「より一層、がんばれと言ったんだよ」と勝手に解釈して帰っていった。
本当のことがわかったのはその日の夜。町の銀行に勤める父親は、帰宅すると昇さんに「ラジオを聴いたか」とたずね、「負けたんだ」、そう呟いた。
川崎市に住む藤原里子さん(78)は、平成11年に亡くなった父、喜多村久雄さんが生前残した原稿を読んだ。喜多村さんは、広島の陸軍電信第2連隊の勤務中に、8月6日の原爆投下に遭遇。被爆はまぬかれたが、大けがをして、空き家に担ぎ込まれた。
15日、重大放送が行われると知らされた。だが、けがで動けない。空き家で待っていると、放送を聴いた患者たちが戻ってきた。内容はよく理解していない様子だった。なかには、「一億玉砕で日本を護持せよ、との天皇陛下のお言葉だった」と話すものもいた。
同じ時刻。東京・宮城の地下防空壕(ごう)で昭和天皇は自らの玉音放送を聴いた。
※週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋