名古屋、大阪、神戸、富山、岡山――。一連の空襲で数十万人が犠牲になったとされているが、正確な数は30万人、55万人とも言われ、定かではない。そして、8月の広島、長崎の原爆を経て終戦を迎える。
今回、体験談を寄せてくれた方の多くも終戦を迎えるまでの1年間に、空襲を経験している。
軍需施設が集中していた名古屋は多くの空襲を受けた都市のひとつ。
加藤和彦さん(86)は当時、名古屋市にあった三菱発動機(三菱重工業名古屋発動機製作所)の大幸工場で日夜、航空機のエンジン部品の製造にあたった。現在、ナゴヤドームがある場所だ。
加藤さんは19年12月13日の白昼、工場で空襲に遭った。
「空襲警報のたびに、工場の床を削ってつくった防空壕(ごう)に退避していました。いつもは、適当な骨休みができるぐらいに思ってのんびり構えていたのですが、その日は様子が違ったんです」(加藤さん)
約70機からなるB29のギラギラした機体が、上空から飛行機雲をなびかせて襲いかかり、大型爆弾を雨あられと落としてきた。
「一つの壕に十数人は入っていました。爆弾が壕に直撃すればひとたまりもありません。それに壕の入り口に重機が倒れ込んだら生き埋めになります。と思っている間に、私がいた壕も半壊状態になりました。『ともかく逃げ出せ』との声に押され、我先にと飛び出しました。一歩でも工場から遠ざかろうと必死で逃げたんです」(同)
30分ほど逃げたと思ったころ、工場付近を飛んでいた飛行機が見えなくなった。「空襲がおさまったんだな」と思い工場に戻ってみると、あたりは惨憺(さんたん)たる有り様だった。
「工場は半壊状態。死体が転がり、機械は横倒し。みな愕然(がくぜん)として、その場に立ちすくんでしまいました」(同)
このあと、名古屋市は20年3月12日の空襲で市街地が焼け、5月14日の空襲で名古屋城が焼け落ちた。繰り返された空襲により、死者は7800人を超えたといわれる。
繊維と造船の街、愛媛県今治市。この今治市も数回の空襲に遭うことになる。
当時、学徒動員でガス溶接工として働いていた白石隆治(たかはる)さん(87)によると、20年夏ごろは毎晩、空襲警報のサイレンが鳴っていたという。
ある日、「日本良い国、紙(神)の国」などと書かれた伝単が撒かれたという。伝単とは、戦時中に米機から撒(ま)かれたビラで、空襲を予告したものや広島への原爆投下を告げるビラもあった。
白石さんが見た伝単に書かれた「紙の国」とは、「日本の住宅は木造で障子やふすまなど紙を使っているので、よく燃える」という意味だったようだ。
「私は、人に見せてもらいました。でも、すぐに憲兵が没収するんですね。血眼になって伝単を探していましたから。持っていた人は罰せられたようです」(白石さん)
そして、8月5日深夜、B29の大編隊が現れた。警戒警報が解除され、床に就いたころだった。照明弾が投下され、辺りは真昼のように明るくなった。天地が引っくり返るようなゴオーという音がする。
「大音響とともに、大量の焼夷弾(しょういだん)が降ってきたんです。着弾した途端、木造家屋は、紙片のように燃え上がり、たちまち火の海になりました」(同)
広い道を避難すると狙い撃ちにされると聞いていたため、水田を死に物狂いで逃げた。
「機銃掃射が恐ろしかったんですよ。そのころは、B29も機銃掃射をしてきましたからね。頭に焼夷弾の直撃を受けた人は、頭が体にめり込んだと聞きました」(同)
※週刊朝日 2015年6月12日号より抜粋