日本の現代演劇にぴったりと伴走した評論家・扇田(せんだ)昭彦さんが74歳で亡くなった。朝日新聞大阪本社生活文化部次長・藤谷浩二氏は、朝日新聞の先輩だった扇田さんについてこう語る。
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「扇田です、ちょっといいですか? たった今、おもしろい芝居を見たんだけど。それはね……」
この十数年間、弾んだ声のこんな電話を何度いただいたことだろうか。
扇田昭彦さんと初めて会ったのは1997年の春。私は朝日新聞学芸部の駆け出し記者、扇田さんは大先輩の編集委員だった。作家や学識者でつくる書評委員会の社内委員でもあり、読書面担当の私は、記者同士というより筆者と編集者として接することになった。
2週間に1度の委員会では、いつも温和な表情で、激論が交わされるのを聞いていた。時折そわそわしているときは、「夜はやっぱり劇場に行きたくなるんだよね」と照れくさそうに笑っていた。
3年後、扇田さんが定年退職した年に私は演劇担当になった。その仕事の凄さと独創性を痛感したのは、追いかけるように演劇人にインタビューするようになったこのときからだ。
ある劇作家は「田舎の高校生が新聞で扇田さんの劇評を読みふけり、東京の演劇界にあこがれた。彼には私の製造責任がある」と語った。ある人気俳優は「下積み時代に劇評で1行ほめてくれたから今の自分があるんだ」と打ち明けた。
劇評の受け手として編集者の仕事は続いた。一瞬で虚空に消え去ってしまう舞台芸術。限られた観客しか享受できない劇場での体験をいかに文章に定着させ、記録するか。そのことへのこだわりと責任感が、扇田さんの劇評と評論を貫く芯だったと思う。
とりわけ60年代に勃興したアングラ演劇とその後の小劇場運動に伴走し続けた記録は、現代演劇をめぐる貴重な財産だ。唐十郎の状況劇場、蜷川幸雄の現代人劇場と櫻社、寺山修司の天井桟敷、そして野田秀樹の夢の遊眠社――。同時代に間に合わなかった人も、往年の舞台の熱気とまばゆい才能の輝きを追体験できる。
若い才能と困難な状況下で創作を志す者にエールを惜しまなかった。冒頭の電話はたいてい、未知の若手の公演を見た後にかかってきた。ユーモアを交えて感想を語る声、観劇中にそっと左手でペンを走らせてメモをとる姿。74歳、悪性リンパ腫。お礼を告げる間もなく、突然旅立ってしまった扇田さん。劇場という「現場」でもうお会いできないのが、なによりさびしい。
※週刊朝日 2015年6月12日号