歴史の裏舞台で暗躍した忍者。忍者・忍術に造詣の深い川上仁一(かわかみ・じんいち)氏をナビゲーターに、伊賀忍者の末裔・伊室春利(いむろ・はるとし)氏と甲賀忍者の末裔・渡辺俊経(わたなべ・としのぶ)氏が代々伝わる秘密を明かした。
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渡辺:家を調べたら古文書が次々と見つかりました。そのなかには、本来残っていてはいけないのですが、代替わりする時に藩の秘密保持を誓った起請文の写しもあります。木村奥之助宛てに、「神々にかけて秘密を守ります」と書いてあるのです。
伊室:私も家に保管してあった巻物を持ってきました。これを見てください。
川上:「日光御社参伝奉御役人衆宿坊並びに町宿」とありますね。
伊室:江戸時代、伊賀を統治していた主君の藤堂家が日光東照宮参拝に向かう際に、どこの家がどこの宿に泊まっているかが詳細に書き留めてあります。先祖は同行しながら、事前に宿の管理をしていたようです。秘書のような仕事ですね。時代背景から考えると、敵味方の区別をつけるためにも調べていたのでしょう。
川上:昔の日本というのは戦いを想定した武家社会であり、常に臨戦態勢なので、必要な役目ですよね。
渡辺:忍者の危機管理能力が活用されていると思います。これはすごい資料です!
伊室:尾張中納言(尾張徳川家)の宿はここ、紀伊中納言(紀伊徳川家)の宿はここ、とか書いてある。知っていれば奇襲にも行けるわけだから、機密資料ですよね。尾張、紀伊、水戸の順で書かれています。
渡辺:徳川御三家というのはこの順番ですよ。
伊室:御三家に続く4番目は井伊家で、次は松平家ということもわかります。日光のどこどことか、この一行が訪れた町宿の名前も全部書かれています。
川上:藩の役人がするような内容なのに、なぜこれを伊室さんのご先祖がやられていたのかと不思議に思いますよね。それは、まさかの時のことを考えると忍者に任せたほうが安心だからです。将軍や藩主などの幕府の重役連中が遠方に移動する時は、多くの藩でも忍びの者が宿の管理をしていたのではないでしょうか。福井藩にも義経流という忍びの衆がいて、警護や諜報の仕事をしていた記録があります。平和な江戸時代になると忍びの奇襲・攪乱を想定してもあまり実用的ではなかったので、治安維持、警備を中心にした務めだったようです。
渡辺:1630年頃になると、藩主たちは参勤交代で江戸にある藩邸にいて江戸城で勤務するから、江戸の甲賀衆伊賀衆は江戸城大手門の警備もしています。
川上:伊賀では何時に誰が城に入って何時に誰が出たとか書いてある記録も残っています。
渡辺:田舎に残った人は百姓をしながら、呼び出しがあった時に対応するとか、そういう形でやっていたようです。
川上:早馬で駆けつけたり、鉄砲を試し撃ったりとかですね。いざという時に役立つように、常に鍛錬を積んでおくことが大切でした。
渡辺:私の先祖も毎年1回正月前後に、忍びとしてではなく、鉄砲指南役として名古屋城に行っていました。
川上:忍びをやるには、周囲の仲間も騙さないといけなかったわけですね。
渡辺:そこでは城主以下トップ数人くらいしか、忍びであることを知らなかった。でも、尾張徳川家にはしっかりと「この者は実は忍びである」と書かれた秘密文書が残っていました。
(構成 本誌・小倉宏弥)
※週刊朝日 2015年2月6日号より抜粋