
世紀のご成婚から55年余り。天皇、皇后両陛下はともに傘寿を迎えた。平成皇室を築き上げた両陛下の四半世紀にお祝いを述べるのは、前宮内庁長官の羽毛田信吾(はけたしんご)さん。側近がその目で見て、心で感じた両陛下のお姿とは――。
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私は宮内庁次長となった平成13(2001)年から、長官で退官する平成24(12)年まで、11年間お仕えしました。
そのなかで、象徴天皇の究極の姿を見る思いだったのが、平成23(11)年に発生した東日本大震災へのご対応でした。
両陛下は3月30日に東京武道館の避難所を見舞い、そこから7週連続で被災者をお見舞いされました。両陛下の強い意向で、いずれも宮内庁側から県知事らに訪問が可能か打診して実現したものです。
事前に被災地の知事や関係者と「いまは交通手段が途絶しているが、こうした方法であれば受け入れは大丈夫」ということを確認する。なるべく早く、しかし現地の災害対応に支障を来さぬようにと、ギリギリのタイミングを計りました。
おふたりとも当時すでに80歳に近いご年齢です。私ども事務方は忸怩(じくじ)たる思いで、「少しペースを調整してはいかがでしょうか」という趣旨のことを申し上げた。しかし、両陛下とも「大丈夫だ」とおっしゃるのです。お疲れのご様子は、絶対にお見せになりません。むしろ両陛下に督励されるような形で、強行日程を続けたというのが実態です。
問題は体力的な負担ばかりではありません。両陛下は、つらい立場に置かれたひとびとと心を通わせようとなさる。それは当事者が抱える精神的な傷も背負われることを意味します。
平成23年の4月27日。両陛下は航空自衛隊の小型ジェット機に乗って、宮城県東松島市の松島基地に到着されました。昼食のあと、自衛隊のヘリに乗り換えて、県北部にある南三陸町の歌津中学校とすぐ隣の伊里前(いさとまえ)小学校に向かいました。
村井嘉浩県知事は、「あそこが大川小学校の場所です」と、児童と教職員84人が死亡・行方不明となった学校を指してご説明します。すると両陛下は、眼下に広がる光景をじっと見つめ、悲痛な表情を浮かべておられました。
被災地から皇居へお帰りになる際も、現地に心を残しながらという感じがございました。被災者の身の上を気遣われる両陛下と、それに応えて何とか前向きに生きようとする被災者。お見舞いのたびに互いの心が響き合うような光景を見てきました。
※ 週刊朝日 2014年11月21日号より抜粋