戦国時代の武将・前田利家の18代当主である前田利祐(としやす)氏は、戦後に過ごした鎌倉の別荘での希有な体験を語る。
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戦後すぐ、疎開先の金沢から鎌倉の別荘へ逃げ込むようにして引っ越しました。
戦前には、東京・駒場の屋敷だけでも、運転手や庭師や馬丁(ばてい)まで含めて50人くらい。別荘までいれたらかなりの方が、わが家で働いていました。しかし、戦後はほとんどの屋敷を失ったので、彼らの多くをリストラせざるを得ませんでした。
最終的に残ってもらったのは4人だけ。彼らは、ご飯を作ったり、お正月などの行事の準備をしたりと、家のことは全部やってくれました。ほぼ一生奉公でしたが、5年前におふくろが亡くなったのを機に、最後の一人もやめられました。
戦後しばらくは、うちでも食べ物を手に入れるのが大変でした。鎌倉の浜から海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったり、庭にカボチャやサツマイモを植えたりと、ほとんど自給自足です。鎌倉の別荘の芝生は畑になっていました。
建物は洋館でした。そのため、半分接収されまして。ええ、文字通り半分です。廊下の真ん中に壁をつくって、3階建てをそのままタテ割りにしていました。表半分に米軍関係者が、裏半分に僕らが住んでいた。まあ、別荘といってもわりと大きな建物で、出入り口も別でしたけどね。
おかしな話ですけど、接収されて助かったこともありました。鎌倉の別荘には、もともとスチーム暖房という設備がついていました。石炭でお湯をわかして建物全体を暖めるというものですが、しばらく使っていなかったので壊れていた。それに、戦後は石炭が手に入らないから、僕らは暖炉で薪を燃やして暖をとっていました。ところが、米軍の人たちは寒くてしかたないから、スチーム暖房を修理して石炭をどかどかと燃やしました。おかげで僕らのほうまで暖まった。
クリスマスには鶏の丸焼きやケーキをプレゼントしてくれました。ケーキには白い生クリームがのっていてね。そんなうまいものを食べるのは初めてでしたよ。
接収が終わった後、表半分は佐藤栄作元首相にお貸ししたこともあります。施政方針演説の前日などには夜中に演説の練習をされていました。佐藤さんの書斎のすぐ隣が両親の寝室で、壁も防音ではないですから、かなり聞こえました。そんなこともあり、敷地内に家を建てて、うちはそちらへ越し、別荘はまるまる佐藤さんにお貸ししました。30年ほど前、これらの建物と敷地は鎌倉市へ寄贈し、現在は鎌倉文学館になっています。
25年前に親父の利建(としたつ)が亡くなり、僕が当主になりました。当主で大変なのは先祖の式年(しきねん)です。歴代の当主が亡くなってから、1年、5年、10年、50年、100年。その後は100年ごとの命日に式年祭を行います。しかも、菩提(ぼだい)寺とお墓と神社、それぞれで式年祭があるから楽ではありません。
たまたま今年は、2代・利長の没後400年です。昨年は瑞龍寺(ずいりゅうじ)で、今年は尾山神社と野田山の墓地で400年祭をやりました。
それでも、まだうちは18代。数年に1回しか式年祭はありません。天皇家は125代ですから、毎年何回も式年祭を斎行(さいこう)なさっておられます。それを考えたら、うちはまだまだ楽なものです(笑)。
(構成 本誌・横山 健)
※週刊朝日 2014年9月19日号