太平洋戦争の終結を信じず、戦後29年間もフィリピン・ルバング島のジャングルに潜伏していた元陸軍少尉の小野田寛郎(ひろお)さんが1月16日、91歳で亡くなった。
潜伏中の1972年10月、日本政府は大捜索隊をルバング島に送りこんだ。その際に通訳をした元朝日新聞マニラ支局長の大野拓司(たくし)さんが、秘話を明かした。
「私は当時、マニラの大学院の留学生でした。捜索隊と一緒に、2カ月半ぐらい山中を捜しまわった。そのときは、小野田さんを見つけられなかったのです」
小野田さんはバナナやヤシの実を取り、牛や魚などを捕まえて食いつないだ。発見されたのは、それから1年半後のことだった。
「74年2月、冒険家の鈴木紀夫さん(当時24)が一人でテントの中にいると、小野田さんは2日間くらい鈴木青年を観察しました。鈴木さんが靴下にサンダル姿だったので、日本人じゃないかと判断し、夜中に近寄って、『おい』と声をかけたそうです。それで鈴木さんに写真を撮らせ、『上官が任務解除命令を出したら帰る』と伝えたのです」(前出の大野さん)
すぐに上官と、兄で医者だった敏郎(としお)さんがルバング島へ行き、小野田さんと接触した。
「お兄さんが診察して、汚れた服をさっさと着替えさせたのです。その後、マスコミがどっと来たのですが、小野田さんが身ぎれいにしていて絵にならないということで、現地での汚れた服に着替え直して、写真に納まったそうです」(同)
62歳のとき、小中学生を対象に「自然塾」を創設し、その後、福島県の山中にキャンプ場をつくった。自然塾を体験取材した前出の大野さんはこう話す。
「月明かりしかない夜道を歩くとか、湧き水が飲めるかどうかの判断とか、子ども向けのサバイバル術を教えていました。話し方は優しくて、慎重な人でした」
親族によると、6日に微熱が出て、救急車で東京都中央区の病院に運ばれた。
「話しかけると理解しているようでしたが、『ほー』とか『うん』という程度で、しゃべることはできませんでした。本人の生前からの意向で、延命装置はつけませんでした」
死因は肺炎。まだ元気だったころ、死ぬときは日本で、妻の手を握って死にたいと語っていた。
「妻に手を握られて、安らかに逝きました」(親族)
この3月で、小野田さんが救出されて40年。その直前の大往生だった。
※週刊朝日 2014年1月31日号