ほぼ30年前に幕が降りた在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業は、日朝関係の原点だ。国連人権調査委員会がこの夏、北朝鮮の帰国事業の人権侵害を調査し、拉致事件と同様の問題があると指摘したが、日本での関心は薄い。小島晴則さん(82)は、当時、共産党で帰国事業に関わっており、新潟港から北に向かった8万8611人を見送ったという。当時の話をジャーナリストの前川惠司氏が聞いた。

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 小島さんは帰国する人たちの間に踏み込み、写真を撮り、話を聞いた。日雇い労働者で酒好き、40歳近くで独り身の金さんは、「北で嫁をもらえる」と期待をふくらませていた。満州(現・中国東北部)で知り合った朝鮮人妻を持つ日本人の大工、菅原さんは、少しでも早く「差別のない」妻の国に行くのだと言っていた。木村食堂の朴さんは、日本人の妻を置いて「一足先に帰国する」と宣言していた。小島さんは、自分自身が社会主義の国に帰るような気分になった。

「北朝鮮の社会主義が発展することが、日本の革命に寄与するのだ」

 と高揚した。帰国船の出迎えや一緒に来る代表団とのパーティーの準備、日本各地から新潟駅に着く帰国者の歓迎の手配、帰国前の日々を過ごし帰国の最終意志を確認される日赤センターでの慰労会。目が回るような日々だったが、疲れはなかった。

 国会議員の帰国協力会の代表委員の一人が、小泉純一郎元首相の父、小泉純也氏(69年没)だった。「彼も埠頭(ふとう)に見送りに来ていた。感無量だったのか、無言で見送っていた」ことを小島さんは覚えている。

「ただ、帰国する日本人妻は不安そうだった。『朝鮮総連は3年たてば日本に里帰りできると言っているけど、行ったきりにならないか』と尋ねてくる人もいた。私は、『いやあ、大丈夫ですよ。日本人妻は優先的に戻れますよ。統一だってすぐ。それが歴史の流れ』と答えたものだった」

 帰国船が入港すると、小島さんたちは打ち合わせと称して船内に入った。テーブルにワインやビール、ウイスキー、キムチやつまみが並んでいた。

「日本より豊かだと錯覚した。朝から酒を飲めるなんて、社会主義はいいなと思った」

 帰国事業が始まって2年ぐらいすると、帰国者から日本の親族あてに、「ものを送ってくれ」という手紙が届いている、と噂で聞いた。そんなことはデマだと一蹴して気にしなかった。帰国船でやってきた朝鮮赤十字会の幹部は、「病気だっただれそれは、共和国(北朝鮮の意)での治療ですっかり回復した」と、いいことずくめの近況を伝えた。祖国では至れり尽くせりだという帰国者の手紙が、帰国協力会には届いていた。

 当時、朝鮮総連でもごく一部の最高幹部を除くと、北朝鮮の実相を知らなかった。北へ行ったら最後、日本に再入国はできなかったからだ。

※週刊朝日 2013年11月15日号