歌舞伎町などの飲み屋街が広がる東側と対照的に、東京・新宿駅の西側には近代的な高層ビルが立ち並ぶ。8月22日朝、藤圭子(62)が転落したのはその一角にある28階建てタワーマンションの13階の一室からだった。

 決意の死。歌姫として一世を風靡(ふうび)し、愛娘をトップスターにした藤は、何に絶望したのだろうか。

 藤は戦後間もない1951年、岩手県一関市で、地方まわりの浪曲歌手だった父と、三味線奏者の母・澄子との間に生まれた。一家は藤が生まれて間もなく、北海道へ渡った。

 作詞家で、藤を世に送り出した「育ての親」故・石坂まさを氏は、99年に出版した著書『きずな』(文藝春秋)に、澄子から聞いた当時の一家の暮らしぶりを記している。仕事がないときは、長女に乳飲み子の藤を背負わせ、澄子は三味線を抱え、父親は長男の手を引いてふろしき包みを背負い、一軒一軒営業のために農家をまわった。厳寒の北海道で、寺の軒先や床下で寝ることもあった。澄子は目が不自由だったが、栄養失調が原因だったという。

 藤の歌の才能に気づいた両親は、藤が中学を卒業するころ、娘のデビューを目指して上京した。西日暮里の六畳一間のアパートに家族5人で暮らしながら、藤は、目の不自由な母の手を引き、浅草や錦糸町で流しで歌い、日銭を得た。石坂氏は、親子が訪ねてきた当時をこう回顧している。

〈少女はとなりの部屋で漫画を読んでいた(略)、母親はわが娘の才能と可能性をまくしたてた。(略)娘に賭けた執念だけは十分に伝わっていた。(略)少女を歌手にすることに、私の作詞家のこれからを賭けてみようと思った〉

 石坂氏は自分が育った町を題材にした「新宿の女」を書き、69年、藤圭子としてデビューさせた。熱心なプロモーションが功を奏し、翌年出した「圭子の夢は夜ひらく」は77万枚の大ヒットとなり、紅白歌合戦出場も果たした。

 貧困からいきなり、藤はスターダムを駆け上がった。芸能リポーターの石川敏男さんは、こんなエピソードを明かす。

「藤が『ジャムパンを食べたい』というのを映画で共演した女優が聞いて買ってあげたところ、藤は『子どものころ、ずっと食べたかったけれど、食べられなかった』と言って泣きだした。夜になると藤がその女優のホテルの部屋に『寂しいから一緒にいて』と訪ねてきて、一晩中、それまでの苦労話を語ったそうです」

 石坂氏は著書で、藤が売れだした直後、両親がカネを無心しに来た話を明かしている。藤は両親から逃れるように、人気絶頂期の71年、歌手の前川清と結婚。これを境に芸能生活が暗転していく。

「夫婦仲はすぐ冷め、前川は家で水槽の鯉をじっと眺めているばかりで、藤はその横でよそを向いている、などと言われました」(石川さん)

 前川とは1年で離婚。この時期、両親も離婚した。

「母の澄子さんをテレビの生放送に呼んで話してもらったら、夫が暴力的だとか、娘が稼いだカネを使い込んでしまうなどと話していました。『夫に雪の中で押し倒されて圭子が生まれた』などという話もしたので驚きました」(同)

 藤は28歳で引退を表明し、渡米した。2年後、芸能界に復帰し再デビューするが、かつての勢いはなかった。米国で知り合った音楽プロデューサーの宇多田照實(てるざね)氏(65)と82年に結婚。翌年、娘・光(宇多田ヒカル・30)が生まれると、娘を母に預け、生活のために細々と歌い続けた。もっとも、このころが家族として一番幸せな時期だったかもしれない。

「目が不自由だった澄子さんの縁で、日本点字図書館に、澄子、藤、ヒカルの3代の母娘が連れだってちょくちょく顔を出していました。図書館の飲み会にも来ていた」(図書館関係者)

週刊朝日 2013年9月6日号