ツッコミは「ここが笑いどころですよ」と観客に合図を送る役目を果たしている。特に、ボケが非常識すぎて分かりづらいときには、ツッコミがどっしりと常識の上に立ち、安定したポジションから的確な指摘をすることが重要になってくる。ツッコミは明快で分かりやすいものである必要がある。ツッコミが常識の側に立つのはそのためだ。
優しいツッコミはその点で掟破りである。ツッコむと見せかけてツッコまないのは、明らかに非常識な振る舞いであり、もはやツッコミというよりボケに近い。でも、これに対するツッコミはもうない。それなのに優しいツッコミできっちり笑いが起きるのはなぜなのか。
それは、優しいツッコミが漫才としては非常識だが、日常においてはごく常識的な振る舞いだからだ。その意味で常識に軸足を置いているからこそ、見る側は安心して笑えるのだ。
そもそも、一般的な漫才のようにボケとツッコミがはっきりしている状態というのは、日常ではめったに見られない特殊な状況である。ボケに対して大声でキレのあるツッコミを放つということ自体が、本来は不自然であり、非常識なことなのだ。
理解できない状況に直面したとき、自分の方が正しいに違いないと信じて、相手を訂正しようとするというのは、普通の人間の振る舞いではない。普通なら、まずは何とか理解しようとするはずだ。松陰寺の優しいツッコミは日常では当たり前の行動なのだ。(もちろんここには「理解しようとしすぎる」という別の種類のボケも紛れ込んではいるのだが。)
『M-1』の決勝でぺこぱは10組中10番目に出てきた。観客や視聴者は、よりすぐりの9組の漫才を見た後で、ぺこぱという「日常」に帰ってくることになった。
優しいツッコミを通して、彼らはボケとツッコミが大声でがなり合う「漫才」の方が実は不自然なものであるということを浮かび上がらせた。これは『M-1』という大会全体に対する批評にもなっていた。だからあれほど衝撃的だったし、あれほど受け入れられたのだ。
これは、ボケとツッコミという伝統のない非関西出身の芸人だからこそ生み出せたものだろう。優しいツッコミの本質は優しさではなく、「理解できないものを理解しようとする」という人として当たり前の本能なのだ。(ラリー遠田)