展覧試合で長嶋の本塁打の行方を追う山本哲也捕手(提供/澤宮優氏)
展覧試合で長嶋の本塁打の行方を追う山本哲也捕手(提供/澤宮優氏)
山本哲也捕手(提供/澤宮優氏)
山本哲也捕手(提供/澤宮優氏)
野球の神様・川上哲治氏(左)と並ぶ山本捕手(提供/澤宮優氏)
野球の神様・川上哲治氏(左)と並ぶ山本捕手(提供/澤宮優氏)

村山実や小山正明など阪神の黄金投手陣を支えた名捕手が10月13日に亡くなった。その名を山本哲也という。享年85歳だった。

【写真】巨人・川上哲治氏と並ぶ山本捕手

*  *  *
 1953年に本工業から阪神(当時は大阪タイガース)に入団。170センチ、64キロと小柄なため、打力は今一つだったが、リード面のよさを買われ、57年に正捕手となった。以後、64年に引退するまで阪神のマスクをかぶり続けた。

 山本の野球人生は、影の役割に徹したものだった。その中で彼の隠れた大きな功績がある。それは引退後、新人投手だった江夏豊の原型を作った点である。
そんな隠れた名捕手の人生をたどってみたい。

 59年6月25日の天覧試合で長嶋茂雄がレフトポール際にサヨナラホームランを打った瞬間の写真がある。長嶋が打球の行方を追っている。その背後で片膝をつきながら打球を見上げている捕手の後ろ姿がある。背番号は「25」、これが山本である。この写真はプロ野球史を語るときに、必ず出てくる歴史的写真である。

 63年8月には村山が渾身の球を、ボールと判定され、審判に涙を流しながら抗議をするという事件があった。村山は山本の肩に取りすがって泣いた。これも後ろ姿の写真である。

■江夏の球を受け続け指が曲がった

 2008年に山本に取材をしたとき、彼はすぐに左手の人さし指を見せた。指は関節が曲がるのとは逆の方向に「く」の字の形をしていた。

「ユタカの球を受けた結果ですよ」

 山本は苦笑した。ユタカとは、球界を代表する大投手、江夏豊である。彼は江夏の球を受け続け、指が曲がってしまったのである。
 
 江夏は66年の一次ドラフト1位で阪神に入団した。この頃の契約は秋だったので、11月のキャンプに新人投手が参加した。このとき山本は二軍ブルペン担当コーチをしていた。

 首脳陣の方針で江夏の球を受けることになったが、驚いたのは球の速さだった。

「ぽっと投げたら、ものすごく球が速いのですよ。球の回転もものすごくいい。いい投手が入ったなと思って、名前を聞いたら江夏ということでした」

 村山の球は捕手の3メートル前から風を切る音が変わったが、江夏の球も同じだった。
 
 ブルペンでは大きく見えた。

■ミットを動かさない捕球

 一方、江夏もブルペンに行って驚いた。14歳年上の小柄な山本がキャッチングスタイルになると、大変大きく見えたことである。

 捕手は捕球しやすいようミットを縦に構えることが多いが、投手には体の幅が狭く見えてしまう。そのため捕手が遠くにいるように感じられ、投げにくい。

 しかし山本は横に構えるから幅が広く見えた。捕手が近くに見えるから、投げやすい。 
 
 ふつうは江夏ほどの威力のある球を受けると、捕手は痛みを軽減するためミットをずらしながら捕球したくなる。だが山本はどんなに痛くても、捕球する際にミットは動かさない。

 動かない的ほど、投手にとって投げやすい相手はいない。

 山本は言う。

「僕はミットを押し込めるように構えました。球は押さえるように捕り、音を出すようにします。投手から大きく見えるように構えます。江夏も、“おっさん(山本)のミットは全然動かないし、的が大きく見えるからそこに球がほうれる”と言うのです」

 山本は江夏の気持ちを投球に集中させる心理操作にも秀でていた。

 江夏は気持ちが乗れば、率先して投げ込んでいく。自分でもいい球がほうれたと確信を持ったとき、山本の叱責が飛ぶ。

「何だこのへっぽこボールは! 駄目じゃないか」

 江夏は怒って、さらにいい球を投げてやろうとムキになる。その繰り返しで投げ込み、ボールに磨きがかけられた。

 気乗りしない日は、江夏は早く練習を済ませたいと考える。山本は彼の心理を見抜き「ユタカ行くぞ!」と声をかける。江夏は力を抜いたボールを投げる。しかし投げるたびにミットが大きな音を立てる。これには江夏も首をひねった。

「全力でほうってないのにバチーンといい音がするんです。“ええボール行ってるやないか”と褒められる。不思議で仕方ない。気持ちが乗って300球近く投げ込んでいました」

 江夏は山本のキャッチングの魔術にはめられていた。山本はあえて音が出るキャッチングをして彼のやる気を引き出していたのである。

「よし、いいぞ、もう一丁行こう」

 さすがの江夏も音をあげ「そろそろ勘弁してくれ」という顔をするが、それでも山本は「もう一丁」と徹底して投げさせた。いつしか江夏はプロとしてのスタミナを身につけていた。江夏は言う。

「キャンプで山本さんにどれだけ鍛えられたことか。本当に腹が立つくらい球を捕るのがうまかった。今の捕手ではまねできません。あの小さな体がとても大きく見えるんだから。本当に不思議な人やった。僕を乗せるのがうまくてね、こちらが疲れ切って、何度べそをかいたことか」

 群れることを嫌う江夏も山本には心を開き「おっさん」と呼んだ。新人の江夏は翌年、42試合に投げて12勝13敗の成績を残した。

■江夏の欠点を見抜く

 2年目の江夏の課題は、外角低めにいい球を投げることだった。1年目は速球で内角勝負をして、27本の本塁打を打たれていた。課題を克服するためには内角への力強い球と、外角低めの速球が決められなければ、投球の幅は広がらない。

 山本はこの年からスカウトになっていたが、キャンプ地を訪れると、江夏はすぐに見つけ出した。

「おっさん、ちょっと治してくれないか。悪いところがあったら言うてくれ」

 投手コーチの林義一も山本の手腕に期待した。彼はジャージ姿になってブルペンに行く。小山、村山の球を受けた彼の目には欠点が一目瞭然だった。投げるとき、体が一塁側に早く開いてしまう癖があった。これでは体勢的に内角へ投げにくく、力の入った球にならない。外角に投げるにもバランスが悪い。山本は忠告した。

「ユタカ、体の開きが早くなっているからボールに力がない。開かないように外角からまず投げろ。外から投げて、次第に体を閉めて内角へ投げよう。最初から内角ばかりに投げると体のバランスが悪くなる」

 ふつう投球練習は内角から始めて徐々に外角へ変えてゆく。山本はあえて逆の練習方法を行った。江夏のバランスは改善され、内角、外角双方へ力の入ったボールが行くようになり、2年目は25勝、奪三振401という成績を残した。

 以後彼は大投手への道を歩む。

「江夏という投手は山本さんに育てられたと言っても過言ではない。山本さんと決めた練習方法が、自分の後々の投手としての見聞を広げてくれました」

 江夏の述懐である。

■オールスターにも2度選出

 山本の現役時代は王、長嶋も若く、巨人全盛だった。しかし62年、64年と投手陣を巧みにリードして阪神を優勝に導いたのは、彼の実績である。オールスターゲームにも2度選出された。記録に見えない大きな働きを残した捕手が山本だった。

 山本の出身校である熊本工業は、川上哲治の他に、「巨人軍最強の捕手」と呼ばれ、ビルマ(現・ミャンマー)で戦死した吉原正喜が輩出している。ベンチまでファウルボールを追いかけ、頭が血だらけになりながらもノーバウンドで捕球した。吉原も165センチ、66キロと小柄だった。吉原は捕手ながら俊足だったが、山本も同じである。沢村栄治、スタルヒンと大投手をリードした吉原の手腕は、山本のそれに通じる。

 そんな伝説の名捕手と山本が重なって見えるのは、一概に偶然とは言えない思いがする。 

 影の役割に徹し、自分の流儀を貫いたサムライがいたことを今の時代にも伝えたい。(文中敬称略)

●澤宮優(さわみや・ゆう)/2004年『巨人軍最強の捕手』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『スッポンの河さん 伝説のスカウト河西俊雄』(集英社文庫)、『戦火に散った巨人軍最強の捕手』(河出文庫)など多数。