その時だった。「ねぇ、やり直しませんか」。広瀬アリスだ。彼女は機転を利かし、レストレイド警部(迫田孝也)がインチキをしたから配り直そうと言い出した。おいアリスよ! 君のこと、お母さんって呼んでいいか! 25年ほど俺の方が年上だが君のこと、お母さんって呼ばせてくれ!
そんなことを言ってる場合ではない。カードを回収したはいいが、今度は本来配るべきカードを選び出さなければいけない。テーブル上でカードを広げて必死の作業。お客さんに見えぬよう、柿澤や横田栄司(マイクロフト役)が壁になってくれる。アリスと迫ちんが必死のアドリブで繋いでくれてる。しかしミスターテンパリストの俺はなかなかカードを選び出せない。後でハドスン夫人役のはいだしょうこから聞いたのだが、この時俺はずっと小声で「俺は老眼なんだ、俺は老眼なんだ」とつぶやいていたらしい。なに舞台上で自分の老いをアピールしてんだ俺!
遅々として進まぬカード選び作業。ここで立ち上がった女優がいた。長年テレビの生放送の司会を務め、突発事態の対応に慣れている八木亜希子(ミセス・ワトスン役)だ。
八木ちゃんはアリスと共に、レストレイド警部役の迫ちんを突っ込む即興劇に参加し、客を大いに沸かせる。八木ちゃん! あなたのこと、お母さんって呼んでいいか!
ピアノ生演奏の荻野清子も、その即興劇をサポートするように、アドリブでBGMを演奏する。荻野さん! あなたのこと、お母さんって呼んでいいか!
一方、カードをなかなか選び出せない僕。もう、この老いをアピールするオジサンに任せても無駄と判断したのだろう。落ち着き払った、でも力のある目で、しょうこちゃんが僕に言った。「カード貸して。裏に持ってく」。しょうこちゃん! 君のこと、お母さんって呼んでいいか!
裏のスタッフの手に渡ったカードは無事、選ぶべきカードで整理され、僕の手に返され、芝居は再開された。終演後のカーテンコールは特別に三谷さんも参加し、カード片手に茶目っ気たっぷりにゴメンのポーズ。アンコールで三谷さんから一言を促された僕は、「今日のことは……記憶にございません!」と、なにお前はウマイこと言ってんだ的なことを言い放ち、一件落着。うそ。落着してない。ホントごめんなさい。共演者たちに助けられた僕が、このハプニングの間に成し得たことは、平仮名4文字で言い表せられる。「あたふた」。みんな、ごめんよ、結局俺、老眼をアピールしただけだったよ。
この一件ですっかりお母さんが増えた僕は、本来のお母さんである妻(←違)の命により、翌日、女性楽屋にゴディバのチョコレートを、お詫びと共に差し入れたのだった。しかし、やっぱ、アレなのな。女優って生き物は、やっぱ、とびきり、かっちょエエのな。(文/佐藤二朗)