極悪同盟といえば、どうしてもダンプのイメージが強い。一度は引退も、復帰し現在も時折試合をするのも、いまだに根強い人気、需要があるからだろう。存在感抜群だったダンプ、そして極悪同盟を支えた実力者がブル中野であったと言えるのではないか。

 ブルは中学1年で全日本女子プロレスのオーディションに合格、練習生となった。正式入門した83年にプロデビューし同年の新人王トーナメント優勝、翌84年には全日本ジュニア王座獲得を果たす。そしてダンプからの誘いを受け、極悪同盟入り、リング名も本名からブル中野とした。

 身体には恵まれていたが、もともと運動神経は良くなかったので激しい練習を繰り返した。そしてヒール転向とともに、ウエイトアップを図った時にはステロイドを使用していたことも告白している。

「他のことはすべて捨てて、プロレスのみに生きる」

 すべてをプロレスに捧げた女。今でも語り継がれる名レスラー、ブル中野がスタートした。

 ダンプ引退後は、自身が中心となって「獄門党」を結成。

「ダンプさんの試合は技で戦うものではなくて、凶器攻撃でお客さんに魅せるもの。私にはプロレスの心がある」

 ステレオタイプのヒール像をぶち壊し、「ヒール対ヒール」でも客を呼びプロレス界の頂点を目指す。90年1月、団体最高位であるWWWA世界シングル王座を獲得し、その後は「女帝」と呼ばれるようにまでなった。

 大柄ながら空中殺法などを使う多彩なファイトスタイル。

「もういいよ、とお客さんに言わせればいい」

 90年11月14日、横浜文化体育館でのアジャ・コングとの金網デスマッチ戦で放った、金網上からのギロチンドロップは大きな話題となった。「金返せ」とファンに言われて悔しかったことへの答えだった。この試合は雑誌・週刊プロレスの表紙を飾り、大きな話題となった。

 その後も現在テレビで大活躍の北斗晶などとの死闘。他団体対抗戦では、神取忍が自らベストバウトというチェーンデスマッチをおこなったことも記憶に残る。

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グローバルにも活躍したブル中野