「乳児虐待死」という衝撃的な事件を通して家族の闇を描いた角田光代の『坂の途中の家』(朝日新聞出版)。待望のドラマ化で、わが子を死なせてしまった被告、水穂を演じるのが水野美紀さんだ。自身ももうすぐ2歳になる子育て真っ最中。その孤軍奮闘ぶりをAERA dot.の人気コラム「余力ゼロで生きてます」に連載中の水野さんに話を聞いた。
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お話をいただいてすぐに原作を読み、次いで脚本をいただきました。その時の第一印象は「ひとごとじゃないな」ということ。
自分で経験してみて初めて、子育てがどういうものかを痛感しました。妊娠前にも妊娠中にもいろんなことを想像してました。結婚前には仕事でお母さん役をいただくこともあって、母親とは、育児とはって想像しながら役作りもしました。でも、そんな想像なんてみーんな無駄だった。それぐらい育児って大変なんです。孤独なんです。そして、不安なんですよ。
腕に抱いたわが子が泣きやまない。泣けば泣くほど、自分が責められているような気持ちになる。自分が産んだはずなのに、まるで理解できない。混乱する。気が付くとお母さんも一緒に泣いていた、なんて話もよく聞きます。その切羽詰まった感じ、すごくわかります。
そんな時に、夫や実母、義母といった「周囲」からかけられる言葉が、実はナイフのように突き刺さる。その恐ろしさ。周囲にとっては孫であり子であり、つい口出ししたくなる。励ましやアドバイスのつもりであって、誰ひとり傷つけようなんて思ってもいない。なのに、その無自覚な言葉が、凶器になって心を傷つける。誰にでも起こりうることだし、私だって……そう思うと考えさせられます。作品の中でも、誰もおかしなことは言ってないんですよ。「子育てなんて、誰もがやってきたことだ」とか「つらいのは今だけだよ」とか。そんな一般論を超えたところに、本当のつらさは潜んでいるのに、それがわかってもらえないんです。
水野さん演じる水穂は、生後8カ月の長女を浴槽に落として死なせてしまった女性。裁判では、すべての感情を放棄したかのように座り続ける。
水穂は、もうあきらめ切っちゃってるんだと思います。周り(裁判員たち)は、彼女に情状酌量の余地があるのか、ないのかを何日もかけて審議してるわけですが、当の彼女にとっては、もはやそんなことどうでもいい。罪から逃れたいとか、減刑してほしいなんて微塵も思っていない。訴えても訴えても、誰にも届かない。わかってもらえない。そういう絶望をいやというほど繰り返して、超えてはならない一線を越えてしまった人。だから法廷では、すっかりあがき終えて「無」になっちゃってるんです。
角田さんの作品のすごいところは、誰もが胸の内に持っている、名前もつかないようなささいな感情に光を当てるところだと思います。ひとつひとつはたいして大きなことでもないのに、積み重なると人をむしばんでいく。大人になると、いろんなことがわかってくる分、どんなことも白黒はっきりさせたくなりますよね。悪いことをした人ははっきりと「悪い人」であってほしい。でも、人生って、人間関係って、そう単純に片づけられるものじゃないんですよ。楽はできないんですよ、って言われているような。じゃあ、いったいどうしたらいいの? どうしたらよかったの? 撮影の間、家族の元に帰るたびにめちゃくちゃ、考えさせられました。
自宅に戻れば、成長まっさかりの子どもがいる。夫がいる。日常がある。
私の夫はサラリーマンではないので昼間家にいることもありますし、育児には積極的です。生後2カ月のころに、どうしても仕事の都合で私が出かけなくてはならなくて、半日だけ、彼に託したんです。完全なるワンオペで。それで帰宅してみたら、しみじみと「こんなに大変なものだとは思わなった」って。これだけ理解があって、どんなことも一緒にやってくれていた人でも、ワンオペの大変さはわかってなかったんだ、ってびっくりしました。
今の時代、子育て中のお母さんを取り囲む状況はますます厳しく、孤独なものになっている気がします。この作品は、子育て中の人も、子育てを卒業した人も、子どものいない人も、男性も女性も、すべての人が、登場する誰かしらに共感できる作品だと思うんです。この作品を通して、今、目の前のことに追い詰められているお母さんを応援できたら、見た人みんなで考えるきっかけになれたら、素晴らしいな、と思っています。
(構成/浅野裕見子)