(写真/欠端大林提供)
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「モスクワ五輪に出場できなかった大物アマレス選手がいると知ってね。私はぜひウチ(新日本プロレス)に入れるべきだと思った。あのとき、民放のテレビ朝日がモスクワ五輪の独占中継権を買って、テレビ局として勝負に出た。ところがまさかのボイコットですよ。当時、新日本プロレスの中継をしていたのも同じテレビ朝日。これも何かの縁でね、モスクワに出場できなかった谷津を獲得すれば、テレ朝も一丸となって応援してくれるはずだと。そういう気持ちがあったんです」(新間さん)

■プロレスの奥の深さ

 スター候補生として新日本に入団した谷津は81年6月、総帥・アントニオ猪木のタッグパートナーという破格の扱いで国内プロレスデビューに臨む。

 だが、対戦相手は当時の新日本におけるトップ外国人選手、アブドーラ・ザ・ブッチャーとスタン・ハンセンだった。

 大型新人が華々しくデビュー戦勝利を飾るのはプロレスにおける興行戦略上のセオリーだった。が、なぜか谷津は外国人コンビに集中攻撃され、最後は血ダルマにされる散々なデビュー戦となった。

(写真/欠端大林提供)
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 谷津が振り返る。

「“ヤツ、ヤツ、凄いヤツ”とさんざん持ち上げて、最後は落とす猪木流に見事にやられたよな(笑)。あそこで勝っていたら、俺の人生はまた別のものになったかもしれない。アマレスは、ひたすら強さを求めればいいけれども、プロレスは違う。でも俺はその仕組みを知らないままプロレスの世界に飛び込んでしまったもんだから、最初は驚いたし、戸惑ったんです。難しいし、奥が深いんだよ、プロレスって」

■「俺の五輪は完結した」

 不完全燃焼に終わったアマレス競技人生だったが、谷津は一度、アマレス界に復帰している。

 86年、日本レスリング協会の強化委員長だった福田富昭氏(現・会長)の計らいで、谷津はプロレスラーでありながらアマレスの全日本選手権(フリースタイル130キロ級)に出場。6年のブランクをものともせず優勝を飾った。

 当時、谷津が所属していた「ジャパンプロレス」の代表をつとめていた大塚直樹さん(72)が語る。

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五輪出場に再び「待った」