華やかな日本橋の街を走る22系統日本橋行きの都電6000型。晩年は7500型と同様の塗色をしていた。三越前~日本橋(撮影/諸河久:1969年4月20日)
華やかな日本橋の街を走る22系統日本橋行きの都電6000型。晩年は7500型と同様の塗色をしていた。三越前~日本橋(撮影/諸河久:1969年4月20日)

 前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、都電の主力で290両の大所帯だった6000型と、その影響を受けて各地に登場した「同系車」の話題だ。

【「金太郎の腹掛け」デザインや「一球さん」として親しまれた車両の貴重な写真はこちら!】

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 ちょっとマニアックな話かもしれない。だが、この6000型が戦後の復興を象徴する車両だったことを、皆さんにご紹介したい。

 東京都交通局(以下、都電)が、戦後真っ先に製造した電車が6000型だった。張り上げ屋根構造の斬新なスタイルは、戦時中の酷使でボロボロになった都電を復興する旗頭として、都民に希望を与えてくれた。1947年の登場から1952年まで、大量に290両も製造された。

 同時期にほぼ同じスタイルで製造された4000型の117両と3000型の242両、それに杉並線用2000型の17両を加えると、「6000型スタイル」をした都電は666両を数えた。戦後の最盛期、都電の総両数は1197両に達していたから、都区内を走る都電の約半数が6000型スタイルをしていたことになる。

 冒頭の写真は、本通り線を走る22系統日本橋行きの6000型。方向幕が南千住になっているが、手前の三越前を出たところで、乗務員が早手回しに変更したからだ。この6185は1950年10月に日本車輛本店で製造され、南千住車庫に配属。1971年3月に廃車になるまでの21年間に一度も南千住車庫を離れなかった。塗装は1959年から始まったキャピタルクリームにエンジ色の帯で、晩年は7500型と同様のクリームに赤みが加わった塗装になった。

1950年代のグリーンとクリームのツートンカラーで営業線に復帰した都電6152。ヘッドライトが一つのため「一球さん」の愛称でファンから親しまれた。 鬼子母神前~雑司ヶ谷(撮影/諸河久:1989年10月1日)
1950年代のグリーンとクリームのツートンカラーで営業線に復帰した都電6152。ヘッドライトが一つのため「一球さん」の愛称でファンから親しまれた。 鬼子母神前~雑司ヶ谷(撮影/諸河久:1989年10月1日)

 続いての6000型は、1980年代に応急用として荒川車庫に残置されていた6152がオリジナルのグリーンとクリームの塗装に戻され、営業運転に復活したときの一コマだ。国鉄湘南電車で実施された通称「金太郎の腹掛け」スタイルの前面塗装も再現され、都電ファンを喜ばせた。

 ちなみに、この6152は1949年7月に日本車輛本店で製造。大久保車庫を振り出しに青山車庫、錦糸堀車庫、荒川車庫と転属した。晩年は車体の更新修繕と台車の振替を施行され、2002年まで半世紀以上にわたり活躍した。引退後は荒川遊園地で保存展示されている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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