兼六園の脇を路面電車が走っていた55年前「金沢」 市民の足だった青電車はなぜ消えた? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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兼六園の脇を路面電車が走っていた55年前「金沢」 市民の足だった青電車はなぜ消えた?

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久AERA#AERAオンライン限定
冬支度をした兼六園から金沢城石川門を背景に百閒堀を走る3系統野町駅前行きを撮影。 兼六園下~県庁前(撮影/諸河久)

冬支度をした兼六園から金沢城石川門を背景に百閒堀を走る3系統野町駅前行きを撮影。 兼六園下~県庁前(撮影/諸河久)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は東京をはなれて、五輪が開かれた1964年の大晦日、訪問先の金沢市内を走る路面電車にスポットを当てた。

*  *  *
 毎年師走が来ると思い出すのは、「東京オリンピック」のあった1964年の大晦日の撮影行だ。

 高校2年生の筆者は冬休みを利用して同好の先輩と北陸旅行に赴いていた。その最終日となった大晦日が北陸鉄道金沢市内線の撮影だった。当日は温暖前線の影響で師走にしては暖かかったが、朝からあいにくの雨。現在なら、天候の回復を待って年を越すか、東京へ直通する北陸新幹線でただちに帰京して、捲土重来(けんどちょうらい)を期するところだ。筆者の手もとに残った路銀も少なくなったこともさることながら、この日の夜行で帰京することが決まっていたから、雨中の撮影が決行されることとなった。

■北陸鉄道金沢市内線を巡る

 加賀百万石の城下町金沢は、京都に次ぐ古都として旅人に親しまれている観光地だ。半世紀前の金沢の街路は、鍵の手に曲がった狭隘(きょうあい)な電車道と三叉路の交差点が複合して自動車交通の渋滞がはなはだしく、路面電車の撮影は難渋した。

近隣の近江町市場の買い物客で賑わう百万石通りを走る1系統小立野行き。背景の「丸越百貨店」の店舗は建て替えられて「めいてつエムザ」になっている。 武蔵ケ辻~尾張町(撮影/諸河久)

近隣の近江町市場の買い物客で賑わう百万石通りを走る1系統小立野行き。背景の「丸越百貨店」の店舗は建て替えられて「めいてつエムザ」になっている。 武蔵ケ辻~尾張町(撮影/諸河久)

 昼を回るころから降雨も収まり、日本三名園として知られる「兼六園」や「金沢城公園」の周囲を取り巻く「百万石通り」に敷設された電車道を辿って、市内電車の撮影を始めた。五つの系統が行き交うホットコーナー「武蔵ケ辻」は、金沢の台所ともいえる近江町市場への買い物客で賑わっていた。ここから主計町(かずえちょう)茶屋街の下車地である尾張町を経て、卯辰山を背景とした橋場町の三叉路を通り、北陸鉄道本社が所在する兼六園下まで、カメラ散策を楽しんだ。薄日が漏れるほどに回復した天候も味方になり、次々やってくる市内電車の撮影は至福の時間であった。

 冒頭の写真は兼六園下から金沢城石川門を背景に「青電車」と呼ばれていた古豪300型を撮影した。金沢の兼六園は前述のとおり、水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つで、すでに樹木には冬の風物詩である「雪吊り」が施されていた。この電車道は金沢城の堀跡に敷設され、当時は百閒堀と呼んでいたが、昨今はお堀通りと呼ばれている。


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