東照宮表参道から眼下を走る日光軌道線200型を撮影。右奥に大谷川に架かる重要文化財「神橋」が写っている。 下河原~神橋(撮影/諸河久:1967年7月25日)
東照宮表参道から眼下を走る日光軌道線200型を撮影。右奥に大谷川に架かる重要文化財「神橋」が写っている。 下河原~神橋(撮影/諸河久:1967年7月25日)
「神橋」を巡る環境は半世紀一日のごとく、しっかりと保全されている。日光軌道線の廃止後、大谷川に架けられた専用橋は撤去されている(撮影/諸河久:2019年7月12日)
「神橋」を巡る環境は半世紀一日のごとく、しっかりと保全されている。日光軌道線の廃止後、大谷川に架けられた専用橋は撤去されている(撮影/諸河久:2019年7月12日)

 パステルカラーの100型は、日光軌道線車両近代化の嚆矢(こうし)として1953年に登場した。100型10両と翌年から増備された200型連接車6両により、種々雑多の旧型車は淘汰された。ちなみに、1968年の日光軌道廃止後100形は岡山電気軌道に転じて、3007として現存する。いっぽう、200型は203が1989年に開館した「東武博物館」に現役当時の姿で大切に保存されている。

 日光軌道線は沿線にある古河精銅所の輸送手段として計画された経緯があり、開業当初から電動貨車(貨物電車)による資材・製品輸送が始められていた。戦時中の1944年、国策として精銅所は増産体制に入った。それまでの電動貨車による国鉄日光駅(現JR)での積換えシステムでは輸送力不足になり、直接国鉄貨車が精銅所までの乗り入れを可能とする設備改良が行われた。これにより、路面電車では珍しい電気機関車が導入され、機関車牽引の国鉄貨車が日光市内を走りだした。

 筆者の訪問時も国鉄駅前~清滝に一日4往復の貨物列車が設定されていた。不定期運転のため、貨物列車をベストタイミングで撮影するのに苦労した記憶がある。


■日光太郎杉事件

 別カットは、日光のメインストリートである神橋通り(国道119号線)を走る日光駅(国鉄駅前)行き100型で、画面の左右には観光客向けの食堂、土産店、旅館が並んでいる。この7月に日光を訪れると当時の建物が多く視認され、往時の賑わいを偲ばせてくれた。写真中央の先に大谷川(だいやがわ)の清流が流れており、左側に世界遺産登録・国重要文化財の「神橋(しんきょう)」がある。

世界の観光地「日光」を象徴する杉並木の表参道と「神橋」の景観地区を走る国鉄駅前行きの200型電車。最後の夏の一コマとなった。 下河原~神橋(撮影/諸河久:1967年7月26日)
世界の観光地「日光」を象徴する杉並木の表参道と「神橋」の景観地区を走る国鉄駅前行きの200型電車。最後の夏の一コマとなった。 下河原~神橋(撮影/諸河久:1967年7月26日)
現在も狭隘な神橋付近の国道120号線。昔の旅人は左側の神橋を渡って、向かい側の表参道に歩を進めた。画面右端の階段の上に橋渡しの神「深沙王堂(しんじゃおうどう)」の社殿がある(撮影/諸河久:2019年7月12日)
現在も狭隘な神橋付近の国道120号線。昔の旅人は左側の神橋を渡って、向かい側の表参道に歩を進めた。画面右端の階段の上に橋渡しの神「深沙王堂(しんじゃおうどう)」の社殿がある(撮影/諸河久:2019年7月12日)

 また「神橋」の左脇を走る国鉄駅前行き200型の写真も紹介する。この連接車は収容能力が高いため繁忙期には団体輸送などにも活躍した。大谷川に架かる朱塗りの神橋は、奈良時代末期の「山菅の蛇橋」として伝承される橋で、橋上からは景勝が楽しめる。

 日光軌道がなくなった現況はほぼ当時のままで、電柱や標識などの変化はあるものの、神橋を取り巻く環境はしっかりと保全されている。

 車道から馬返方を写した別カットは、左側に神橋、大谷川が位置し、画面中央から右側に上る石畳が「東照宮」「輪王寺」「二荒山」へ参詣する表参道だ。単線の日光軌道が走る狭い道が国道120号線で、狭隘(きょうあい)な道幅は日光で最大のボトルネックになっていた。

 日光軌道が廃止されてから数年を経た1973年、筆者の立ち位置の右先にある銘木「太郎杉」を伐採し、国道120号線を拡幅する建設省(現国土交通省)の行政計画を、地元住民の訴訟でストップをかけたという「日光太郎杉事件」が起きた。住民勝訴から幾星霜(いくせいそう)を経た現況は、狭い国道と太郎杉が共存しており、判決が正しかったことを証明している。

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「新いろは坂」が廃止への引導を…