■社会や学校の仕組みに幼い頃いつも怒っていた

 幾田は内装業を営む両親のもとに生まれ、今も暮らす埼玉県蓮田市の田園地帯で育った。夕方に父と弟と3人で散歩に行くのが日課で、葉っぱを見たり星を数えたりしながら長い距離を歩いた。大人になってからも、実家に帰ると父とふたりで──15年に突然、父が心臓発作で亡くなるまでは──よく散歩に出かけた。父はボランティア精神が旺盛で、公園のトイレが汚れていると、掃除を始めた。「『臭いけどね』と言いながらも明るく楽しそうにやる父を見ていたので、私もそういう感覚で社会活動をしている」と幾田は言う。

 現在も近くにいて幾田を応援し続ける母の美津枝は、娘が幼い頃から「為(な)せば成る、為さねば成らぬ、何事も」としつこいほど言い続けた。

「桃子は意志が強くて、自分のやりたいことをやっていく子でした」

 幾田自身は「小さい頃、自分はいつも怒っていた」と回想する。「なぜ女性は上座に座らないの?」「なぜ引き取り手のない犬は保健所で殺処分されてしまうの?」。社会のあらゆる仕組みや決まりごとに疑問をもち、憤っていた。学校でも「なぜ運動靴は白じゃないとダメなんですか?」などと先生に質問するので、教室で浮いた存在だった。

 発言することが善しとされる場を求めて、高校在学中に交換留学生として米国に渡った。みずから課題を見つけて解決策を考えることに重きを置く米国の教育は、自分に合っていると感じた。

 南カリフォルニア大学に進み、国際関係学と女性学を専攻する。「社会をより良くするための、自分なりのやりかた」を模索し始めた頃、環境に負荷をかけている二大産業は石油とファッションであることを、大学の授業で知った。

 それはちょうど、彼女が「自分らしい見た目のアイデンティティー」について考えていた時期でもあった。金曜日の夜になると、パーティーやクラブでファッションを使った「実験」をしていたという。ある種のファッションに身を包むと、ある特定の人種の人たちと仲良くなれた。だが見た目を変えたら、その人たちからは声もかけられなくなった。逆に、以前は幾田に冷たい視線を向けていた白人のお嬢さまグループが、彼女たちと似たような格好をすると、友だちになってくれた。人種や社会階層などで集団が形成されがちな米国社会において、「ファッションは区別されたグループに入っていけるパスポートになる」と実感した。そんなすごいちからをもつファッションで、社会問題を解決したい。幾田はそう思い始める。

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