哲学者 内田樹
哲学者 内田樹

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 3年ぶりに講演旅行のために韓国を訪れた。手続きがずいぶん煩瑣(はんき)になったが、久しぶりに韓国の友人たちと久闊(きゅうかつ)を叙すことができた。

 2泊3日で2都市での講演というハードなスケジュールだったが、今回はソウルでのインタビューのあと、新聞記者たちとの懇談会というイベントがあった。ご飯を食べながら、若い女性記者たち6人と韓国のメディアの現況をめぐっておしゃべりをした。話しているうちに記者たちからのあれこれの質問に私が答える「身の上相談」タイムになってしまった。どの質問もとても面白かった。日韓のメディアが直面している問題は本質的には同じものだと感じた。

 最初の質問は「リテラシーの低い読者にも分かるように書け」と先輩記者から指示されるのだが、そうするとどんどん記事が薄っぺらなものになってしまう、どうしたらよいのかというものだった。同じことを私もよく言われた。難しい言葉を使い過ぎる。ふつうの読者にも分かるように書き換えろと言われた。そのつど「いやだ」と答えてきた。私自身は新聞や書物で自分の知らない言葉と繰り返し出会うことを通じて、その語の意味や使い方を理解し、自分の語彙(ごい)に加えてきた。読者のリテラシーを向上させるのもメディアのたいせつな仕事のはずである。「一番リテラシーの低い読者に合わせて書けと言うのなら、そちらも記事を全部ひらがなにしたらどうですか」と言うと先方はだいたい黙った(そして縁が切れた)。

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内田樹

内田樹

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

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