ウクライナに侵攻したロシア軍は再編成して東部に兵力を集め、親ロシア派支配地域があるドネツク・ルハンスク両州などで進軍する。今後の戦いはどうなるのか。ロシアの狙いは何なのか。東京大学教授(バルカン史、黒海地域研究)黛秋津さんが解説する。AERA 2022年5月2-9日合併号の記事を紹介する。

【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」の文字が書かれた火炎瓶

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 現在のウクライナがある地域は、モンゴル、オスマン帝国、ポーランド、そしてロシアなど、その時々の勢力が東西南北から侵攻し、支配と分割を長い間、繰り返してきました。

 9世紀ごろ、東スラブ民族のキエフ大公国が一帯を支配していました。10世紀終わりにはビザンツ帝国からキリスト教を受容し、これがウクライナと正教との結びつきの始まりとなります。

 そんな中、13世紀になると東側からモンゴルの侵攻を受け、非常に多くの犠牲者が出ました。キーウ(キエフ)の街も壊滅的な被害を受け、都としての機能は崩壊。その後は、リトアニア、そしてポーランドにより支配されました。

 支配と分割を繰り返す歴史の中で唯一特殊だったのは17世紀、正教徒のコサックと呼ばれる集団が自立に向けて反乱を起こし、国家として独立した時期です。ただ、それもあまり長くは続かず、ロシアとポーランドに分割されていきました。

「ウクライナ」の語源となった「クライ」とは、スラブ語で何かを区切る「線」を意味し、そこから「辺境」もしくは「国」を示す言葉だと考えられます。歴史的事実からも、まさに各勢力がぶつかる線上にある辺境の地であったと推測できます。

 現在のウクライナのほぼ全てがロシア領となったのは、ポーランド分割後の18世紀後半です。たかだか約250年前であり、当時の日本は江戸時代です。ロシアのプーチン大統領は「ウクライナはロシアの一部だ」と主張していますが、歴史研究者の立場から言うと、その歴史は非常に短いです。

 現在、ロシアがこだわっているように見える東部地域は、石炭が発見されたため、多くの労働者が周辺各地から移住し、街を形成してきた場所です。彼らの多くはロシア語を母語とする人々でした。ロシアに近接していることもあり、親ロシア地域だと認識されています。

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