経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授
浜矩子/経済学者、同志社大学大学院教授

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「人間の盾」という言葉がある。戦闘下において、敵からの攻撃を封じ込めるための戦術だ。軍事施設や兵士の隊列の前に、民間人を配置するのである。卑劣極まりない。これ以上に卑劣で人権侵害著しきやり方はない。そう確信してきた。

 ところが、あった。下には下がある。それが「人間の矛」である。ベラルーシの独裁者、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領が、この下の下の手法を打ち出した。ポーランドとの国境近くに、中東・アフリカからの移民希望者を送り込んでいる。

 貧困や圧政に喘(あえ)ぐ人々の面前に、欧州での豊かで平和な生活の夢をちらつかせる。そして、甘言に惑わされた人々を、ベラルーシの首都、ミンスクに運び込む。輸送担当はベラルーシの国営航空会社だ。ミンスク到着後の夢追い人たちは、直ちに軍隊によってポーランドとの国境付近の森に連れていかれる。そこで、さぁ、国境を越えろと背中を押される。

 国境の向こう側では、越えられてはならじとポーランド軍が待ち構えている。夢追い人たちは挟み撃ちだ。冬が近い森の中では、既に凍死者が出ている。

「人間の矛」の矛先は、EUに向けられている。EUはルカシェンコ政権の独裁政治を糾弾して、各種の制裁措置を講じた。それに対して、ルカシェンコ大統領が反撃の狼煙(のろし)を上げたのである。制裁を解除しろ。野党と反体制派活動家への支援を止めろ。さもなくば、どんどん「人間の矛」を繰り出す。これが彼のリベンジ・メッセージだ。

 その背後では、ロシアのプーチン大統領の影が不気味に蠢(うごめ)いている。EUは常々、自分たちの理念や体制の優位性を喧伝(けんでん)してきた。それに乗せられて、大移動する移民たちを拒むとは何事か。おびき寄せておいて、門前払いはないだろう。ロシア切っての老獪(ろうかい)政治家、ラブロフ外相がそんな発言をしている。

 ポーランドは、独裁政治においてベラルーシに引けを取らない。そのため、EUとのもめ事が絶えない。この「人間の矛」問題が、両者の間の連帯を強める要因となるだろうか。そうなるといい。だが、いずれにせよ、矛と化すことを強いられた人々の救出が待ったなしだ。

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

AERA 2021年11月29日号

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浜矩子

浜矩子

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

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