シェアオフィス「TiNK Desk」がある福岡市の団地には、古くからの商店街もある。牧田もよくそこで野菜を買う(撮影/写真部・東川哲也)
シェアオフィス「TiNK Desk」がある福岡市の団地には、古くからの商店街もある。牧田もよくそこで野菜を買う(撮影/写真部・東川哲也)

 かつての起業家が「意思ある投資家」として、次世代の起業家を育てる。そんな循環の中心にいる人々に迫る短期集中連載。第1シリーズの初回は、スマートロックで注目の人物、ベンチャー企業tsumug(ツムグ)を創業した牧田恵里(38)だ。AERA 2021年8月16日-8月23日合併号の記事の3回目。

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 米国勤務を終えて日本に戻る頃、母の会社が倒産した。自己破産した母の代わりに、牧田が一家を支えなくてはならない。給料のいい不動産会社に転職し、不動産バブルの中で高額な契約を取りまくった。

 だが起業の夢を諦めたわけではなかった。牧田は、孫正義の実弟で投資家としても知られる孫泰蔵が運営するベンチャーキャピタル「モビーダ」(現ミスルトウ)の門をたたいた。

「私、起業したいんです」

 牧田は孫に幾つかの新規事業を提案した。

「それって、どうしても恵里ちゃんがやらなきゃだめ?」

 孫は牧田に問いかけた。牧田の提案は「投資家に気に入られそうなプラン」だった。「それではダメだ」と孫は教えた。

「もし、自分に潤沢なお金があったら、何をやるの?」

 牧田の頭に、ある出来事が浮かんだ。少し前、牧田は付き合っていた男性と別れた。2人は牧田の部屋で同居していたが、男性は自分の荷物を持って出て行き、牧田がひとりで暮らしていた。ある晩、仕事から帰った牧田は部屋に違和感を覚えた。部屋の中の物の位置が変わっていたのだ。思い当たって電話をすると、案の定、男性が合鍵を使って部屋に入り、忘れ物を持っていったのだった。

 不動産会社で働いていたので、アパート経営で一番面倒なのが鍵の受け渡しであることも知っていた。居住者が変わる時には鍵を受け取りに行き、新しい居住者が下見に来るたびに現場に鍵を開けに行く。何千、何万という部屋を管理している大手不動産会社にとって、鍵の受け渡し業務は大きな負担になっていた。インターネットで開け閉めする暗号鍵にしてしまえば、誰かに合鍵を作られることもなく、鍵の受け渡しのために社員が現場に出向く必要もなくなる。

 スマートロックそのものはすでに世の中に存在したが、不動産会社にとって使い勝手の良いシステムはまだ開発されていない。アイデアを説明すると、孫とともにIoTベンチャーを対象にした投資会社「ABBALab」(アバラボ)を立ち上げた小笠原が、「面白い」と乗ってきた。こうして15年、ツムグが誕生した。

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やはり起業は甘くない