雄勝はいま、地域存続の岐路に差し掛かりつつある。震災後、このエリアにできた高台の集団移転地に移ったのは30世帯ほどで、地区住民の多くは雄勝を去った。雄勝町全体で見ても、震災前約4300人いた人口が、今は1100人。震災後の雄勝町では、防潮堤建設や高台移転などの復興事業が遅れに遅れた。高台移転が完了する2017年を待たず、別地区への移転を選んだ元住民は多い。

 ただ、人口流出の要因はそれだけではない。雄勝を離れたある被災者はこう吐露する。

「家があったから雄勝にいた。家がなくなった以上、戻る理由がありません」

 雄勝中心部に暮らしていた元住民の多くは、商店主や石巻市街へ通勤する会社員。家を失って生活再建を目指すとき、あえて不便な雄勝に残る必然性がなかったのだ。地区に残ったのは、漁師など雄勝に生業を持つ人と高齢者がほとんどだ。徳水さんは、雄勝の持続可能性を守るためには若者が暮らしていける新たな「生業」が欠かせないと力を込める。

「若者が食べていける、ここで家庭を持ち、子どもを育てる。そんな未来を描ける仕組みをつくらなければならない。私のガーデンでも、最低限何人かは雇用を生み出すまでは頑張ろうと思っています」

 徳水さんが、妻の実家がある雄勝に越してきたのは震災の20年ほど前のこと。その後は雄勝町内の小学校教員として勤務を続けてきた。手つかずの雄勝の自然、室町時代から続くといわれる硯産業などに心を動かされた。

「雄勝の自然や文化を教材化して教育に取り組むなかで、地域が自分の人格の一部になった。地域が自分の歴史の1ページを作っていたんです。震災で地域が失われる様を目の当たりにして、初めてそのことに気が付きました」(徳水さん)

 町を出る選択をした人が、責められる理由は全くない。そう前置きしたうえで、徳水さんは続ける。

「私の場合、既に子どもも成人していて雄勝に残ることができた。みんなが街を出ていく中で私たちも雄勝を離れたら、600年の歴史があるこの街が消えていくという危機感がありました。だから、私たちは2011年の段階で残ることを決めていました」

 地域復興に主体的に取り組むことは、自分の喪失感を埋める回復の過程でもあった。徳水さんの活動に共感し、全国から集まる人との交流にも励まされてきたという。

 10年の間に、雄勝の姿は大きく変わった。2016年には高さ9.7メートルの巨大防潮堤建設が始まり、2021年3月時点でほぼ完成に近い状態になっている。いま、海沿いに立っても高い壁に阻まれて海は見えない。

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「震災を経て思うのは…」