東日本大震災の津波による住居喪失と、降りかかった巨大復興事業。命をつないだ被災者たちを悩ませるのは「どこに住み」「誰と暮らすか」だ。AERA 2021年2月15日号の記事を紹介する。
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宮城県石巻市。旧大川小の遺構を左手に、国道を上る。トンネルを抜けてしばらく下ると、「ここまで津波浸水域」と記された看板が現れた。まだ山道の途中で、海は見えない。ここ、同市雄勝(おがつ)町は2011年3月11日、高さ10メートルを超える津波に襲われた。最大遡上高は21メートル。場違いに見える看板がその威力を物語っている。
山を下りるとすぐに、灰色の巨大な壁が現れた。高さ9.7メートル、長さ3キロにおよぶ防潮堤だ。城壁のように延びる防潮堤のすぐ裏にある海は見えず、その気配すら感じない。
震災前、この海沿いには住宅や商店が立ち並び、350世帯が暮らす街があった。だがいま、地区に残るのはわずか30世帯ほど。海際の低地は災害危険区域に指定されて住むことはできず、高台の集団移転地に暮らしている。
「雄勝は、防潮堤に殺された」
高橋頼雄さん(53)は絞り出すように言う。雄勝の名産でもある硯(すずり)職人の3代目。震災後の地域復興を引っ張るリーダーだった。だが、高橋さんは19年春に雄勝を離れ、いまは福島県いわき市で暮らす。
■海から見えた雄勝の街が高い「壁」で囲まれた
高橋さんら地元住民の多くは、巨大防潮堤の建設に反対してきた。市役所支所が事務局を担い、高橋さんが副会長に就いた雄勝地区震災復興まちづくり協議会では11年7月、石巻市長に11項目の要望書を提出した。要望の一つ目は住宅再建のための高台造成。二つ目に、高い堤防を築かないよう求めた。
住民と地元行政の思いは一致していた。だが11年秋、流れが変わる。9月、県から「雄勝湾奥部9.7メートル」という防潮堤の指針が示された。住宅は高台へ移すが、海沿いの県道を守るために防潮堤も築く。それが県の方針だった。当初反対した市役所支所も、やがて受け入れを決定。高橋さんは協議会をやめ、別の住民団体をつくって、震災前と同じ4.1メートルに留めるよう求め続けた。しかし計画は覆らず、16年、ついに工事が始まった。